徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ちあきなおみ「喝采」

僕がギターを弾き始めたのは父が買ったエレアコが自宅にあったからである。ピアノしか知らない僕は友人の勧めでたまたま自宅にあったギターを手にとった。中学二年生の時分。人生の行末を決める、運命の出会いであった。僕が手にとった、父のエレアコは、2000年に我が家に来たものと記憶している。世紀末にやってきたギターは今も元気に置きギターとして実家に鎮座している。2000年当時、何に燃えていたのかわからないが、父はギターを弾きたくなり、家族3人で街の楽器屋さんにギターを買いに行ったのだ。よく覚えている。

エレアコを購入するのと同時に、父は「ジャパニーズオールディーズベストスコア!」みたいなスコアブックを買った。グループサウンズからサザンのような最近の曲まで、100曲ちょっと総ざらいしているスコアブック。ギターを持ち始めた僕は猿のようにこのスコアブックの知っている曲をなぞったのだった。僕のバイブルのような本だ。

 

その本の中にも、喝采が収録されている。

ちあきなおみの歌唱。喝采。

我が家にはちあきなおみのCDはなかった。カラオケに行っても、親族にちあきなおみを熱心に歌う人はいなかったように思う。だから、ちあきなおみの歌をちあきなおみの歌と認識して聴いたこともなかったし、スコアブックに収録されていたからといって、僕が喝采をコピーすることはなかった。

しかし今、晩酌をしながらYouTubeを流し、池田エライザがカバーした「恍惚のブルース」を聴いた後に自動再生で流れてきた喝采を前に、感情が動いてしまっている。すごい歌だ、これは。

喝采は、歌手をしている「私」の物語だ。曲の展開で歌詞を6分割する。

いつものように幕が開き

恋の歌うたう私に

届いた報せは黒いふちどりがありました

一つ目のパート。

津軽海峡冬景色では、上野発の夜行列車に乗ってたと思ったら青森駅にいるスピード感に驚くが、喝采では突然の訃報を突きつけられる。

「いつものように幕が開き恋の歌をうた」っている。歌手だ。そんな「私」のもとに届いた訃報。一体誰が亡くなったのだろうか。

あれは3年前止めるあなた駅に残し

動き始めた汽車にひとり飛び乗った 

二つ目のパート。ドラマが動く。

恋の歌を歌っていたステージが東京だと仮定すると、私は田舎から3年前に上京してきた歌手だったことがわかる。どこが郷里かはわからないが、都会の人ではない。そして、田舎には恋人がいた。恋人は上京を止めていた。しかし、歌手の私は夢と恋人を天秤にかけて、夢を取ったのだ。

歌が発売された1972年。僕が愛してやまない伊勢正三が「なごり雪」を書いたのが1974年だ。「置手紙」、「海岸通」も同時期。マッチ、手紙、汽車。そういう時代に上京するということは、それ相応の覚悟を持ってのことだったのだろう。

しかし、「私」は成功したのだ。「いつものように幕が開く」のだから、歌手としての仕事には困っていないことがわかる。「あなた」は喜んだだろうか。喜んでいて欲しいと思う。そうでないと、死が辛い。

ひなびた町の昼下がり

教会の前にたたずみ

喪服の私は 祈る言葉さえ失くしてた

三つ目のパート。

郷里に戻った「私」は弔いを終え、教会の前にたたずむ。祈る言葉さえ失くして。

どんな思いが胸にあるだろう。「あなた」は一度でもステージを見られたのだろうか。幕が上がり、喝采を浴びる「私」の姿を一眼でも見られたのだろうか。きっと、見られていないだろう。どれだけ「私」が「あなた」にステージを見せてあげたかったか。ステージでは高らかにうたう「私」も、「祈る言葉を失く」す。無念に聴いている者も飲み込まれそうになる。

つたがからまる白いカベ

細い影長く落として

ひとりの私はこぼす涙さえ忘れてた 

四つ目のパート。2番に入る。

「つたがからまる白いカベ」は教会の前だろう。影が伸びるまで佇んでいたのか。祈る言葉も失くし、こぼす涙も忘れ、悲しみの時間だけが過ぎていく。

だが、「私」の日常は待ってはくれない。「いつものように」幕が開く日常が、都会では待っているのである。

暗い待合室話す人もない私の

耳に私の歌が通り過ぎていく

五つ目のパート。

時は進み、都会に戻り、ステージ前の待合室に場面が移る。私がうたう恋の歌を待っている人たちがいる。一方で、私にとって、私の歌は通り過ぎていくものでしかない。滑稽だったろう。悲しみの淵にいる人間がうたった恋の歌を、自分で聞くのだ。恋した「あなた」よりも夢を選び、二度と「あなた」に会えなくなった「私」がうたう、恋の歌。悲しい。ただただ、悲しい。

いつものように幕が開く

降り注ぐライトのその中

それでも私は

今日も恋の歌うたってる

六つ目のパート。曲が終わる。

観客から見たら、一つ目のパートと何ら変わらない景色だ。起こっている事態も全く変わらない。それでも「私」はの思い確実に変わっている。

大切な人の死に直面した時、日常が悲しみから救ってくれることがあると、父が言っていた。単純作業、いつものことが、頭の中で悲しみが占める割合を減らしてくれるらしい。しかし、「私」のいつも通りは、「恋の歌」なのだ。こんなに苦しいことはあるだろうか。いつも通りが喉元に迫ってくる恐怖。悲しみがこびりついて離れない。

 

 

世の中には、事実しかない。事実から、感情が動く。でも、起こっていることは事実だけだ。この曲を聴いていると、よくわかる。事実は変わらないのに、心が動いている。事実だけしか書かれていないのに、心の動きがわかる。心が、動く。

ため息しか出ないが、いい歌と改めて巡り合えました。