徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

にいちゃんの死に寄せて

亡くなった人がいる。

友人とも知人とも違う距離感にある人だ。客観的な事実から僕と彼の関係性を言い表すのであれば「父親同士が高校の同級生」なのだが、親父同士、家族同士の距離感が日暮里と西日暮里の駅間ほどに近いため、ほとんど家族のような関係である。

 

彼の家は常呂にある。ここ2、3年はカーリングで名を挙げている町だ。15年ほど前の市町村合併により、常呂は北見市に合併した。それからというもの、北見はいやしくも「カーリングの街北見」と、我が物顔でカーリングを観光資源化しているのだが、そもそもは常呂の文化だ。

それとは別に、常呂は水産資源に恵まれている。サロマ湖に隣接しており、ホタテの養殖が盛んに行われる。

例に漏れず、彼の家業も漁師である。

正月やゴールデンウィーク、盆やらなにやら事あるごとに、我々家族は常呂の家に遊びに行き、ホタテやサケやイクラをたらふく食べては酒を飲む。僕が上京してからは、帰省に託けて遊びに行くようになった。帰省したのに常呂に行かなかったことはない。やはり親族に近い関係性だろう。

 

彼は1週間ばかり前に亡くなった。2年前から病を患い、克服したと思ったらまた再発して、そのまま逝った。

 

彼は僕より6つ年上だ。敬称はにいちゃんだった。彼には二つ下に弟がいて、一人っ子の僕にとって、二人のにいちゃんが常呂にいるような感覚だった。

古くは、女満別かどこかの海で海水浴か潮干狩りかをした憶えがある。僕がまだ幼稚園児の頃だった。小学生の二人のにいちゃんと、そのまた親戚のにいちゃんに囲まれて遊んだ記憶がぼんやりと残っている。

その後、彼はオーストラリアに短期で留学する。確か英語の弁論大会で優勝したからだった。彼はその頃中学生だったろうか。マライアキャリーを聴いて英語が面白いと思ったと話していた。音楽の趣味が早熟である。ミスチルでもGLAYでもなくマライアキャリー。しかしその後彼が英語を喋れるようになったのかはよく知らない。

高校は札幌に出て行った。彼が15歳、僕は9歳。物心が着く頃に彼は常呂からいなくなった。大学、就職と東京に出ていたため、しばらく彼とは年に一回正月に顔を合わせる程度になる。

彼が大学生の頃。すなわち、僕が中学に上がった頃だが、彼は突然タイに傾倒した。きっかけは確かテコンドーを大学でやったからだったと記憶している(テコンドーをやりだしたのが先か、タイに傾倒したのが先かは定かでない)。彼の実家のリビングで彼のテコンドーを見た。僕は今も昔も特段格闘技に興味がなく、横目に見ていた。彼は歩行時などに謎のスパーリングをするようになる。シュ!シュッ!身体のどこかでリズムを取りながら歩くような所作をよく覚えている。

積極的に料理をするようになったのも大学生の頃ではなかったろうか。タイから持ってきただか知らないがナンプラーをたっぷり使った料理を皆に振る舞っていた。これはとても美味しいものだった。中学生の舌には強烈だったが、悪い味ではなかった。

彼は三年かそれくらい東京でサラリーマンをして、実家に戻ってきた。家業を継ぐために。すれ違いで、僕は大学生になり、東京に出た。

僕が大学2年か3年のころ、彼が東京に遊びにきた際に飲みに行った。家族同士の付き合いを超えて会ったのはこれが初めてで、結局のところ最後になった。彼は東京で働いていた頃に行きつけだった渋谷の居酒屋に連れて行ってくれた。東京にいた頃の友達と僕と、彼。3人での飲み会だった。漁が思ったよりしんどい話をしていた。明るく楽しくしんどい話をする彼からはしんどさは伝わってこなかった。この時、隣の席にたまたま居合わせたのが、我々家族がよく利用する和琴半島の温泉宿、三香温泉のマスターの息子である。思いもかけず大変オホーツク濃度が高い酒空間となり、とても盛り上がった。

僕が社会人になってからは、もっぱら正月に帰省した時に顔を合わせた。彼はよく出かけていた。北へ南へ、昼に夜に。僕らの家族が昼前に常呂に到着し、酒を飲みだした頃に起きてきて、同じ食卓を囲んだ。次第に漁をするだけでなく、加工品を販売することや魚料理を世に広めることに熱を注ぐようになって行った。僕の就職先が大きな小売店だったこともあり、いつかうちでも販売ができたらいいななんて話もよくした。

 

彼の両親は、彼を心配した。魚を獲って売る漁師からはみ出ていく彼への理解と心配。それは、病に罹る前に動き回る彼に対しても、病を一度克服してからさらに活発に動き回る彼に対しても、様々な表現を通して心配していた。僕は、彼の活動を遠巻きに見ていた。そして心配をこぼす彼の両親の言葉を、帰省のたびに酒を飲みながら聞いていた。夢と思いと、どこから湧いてくるのかわからない自信に溢れた彼の姿が危うくも感じた。

しかし彼には表し難い魅力が備わっていた。それは、常呂の漁師という、食糧にも生活にも困らない育ちに起因する懐の深さのような気もするし、それよりももっと不可思議な、特別な星の下に生まれたとしか言い様のない魅力だった気もする。小さなことでは弁論大会で優勝してオーストラリアに行ったことや、病気になったこと、それを一度克服したことも、全て、彼が彼として彼の人生をコーディネートしているようだった。

親の心配をよそに、彼のもとにはたくさんの人が集まったし、彼自身もどんどんと世に出て行った。輪の中心にいるのがとても自然な人だった。

 

箱根駅伝を点けながら、僕は今東京で文章を書いている。例年、今日は僕の家族が彼の家に遊びに行く日だ。正月の食卓。今年はみんなどうしているだろうか。彼がいなくなっても、彼の父はチタンのグラスにウイスキーをなみなみに注いでロックのような水割りを飲んでいるだろう。彼の母は鯨のお汁を作っている。弟は奥さんと子供達を連れてリビングにいる。近所に住む親戚もみな集まってきているはずだ。目に浮かぶ光景にただ彼がいない。昼ごろのそのそ起きてくる人はなく、彼と彼の父とのいざこざも、それを見ている彼の母の諦念も、もう見ることはない。寂しい。

僕の父は、細くてもいいから子供には長く生きてもらいたいと言う。子を持つものの当然の気持ちだ。彼は、彼が生き存えることを願う誰よりも、生きることを望んだろう。しかし、力尽きた。だったらせめて、死を予感したこの数年間、彼が思うように生きられていたのならと、心から思う。

 

 

帰った時に手を合わせに行きます。辛かったろうに、闘病よくがんばったね。たまに連絡をする時も明るいから、なんか大丈夫なように思えたよ。心配しないように気遣ってくれていたんだろうね。漁もない季節だから、おじさんの酒量が心配だけど、えっちゃんが手綱を握るからきっと大丈夫だね。安心して休んでね。また。