徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

踏ん張りどころ

仕事の話である。

今、担当している職務では、いろいろな種類の仕事に携わる。現場をブンブンとぶん回すこともあれば、原理原則からイエスかノーかを判断することも求められる。また、どっちの道に進むか、判断すべき人にどういう判断をしてもらうかをうんうんと考えることもある。いろいろな種類の仕事の球がランダムにどんどん飛んでくるものだから毎日アドレナリンがドバドバ出ている。刺激中毒である。

一つの担当として判断していいレベルの物事であれば話は早い。真摯に考えて、これまでの判断と齟齬がないように、かつ、法にも触れないように判断すれば良い。だが、大抵の場合組織としての回答を求められるので、組織の長に対して判断を求める。ノーアイディアで組織の長に突っ込むような仕事は愚の骨頂である。担当者として、担当している観測範囲から考えうる最適解を用意して、シナリオを描いて、長に判断してもらう。

判断をもらう時点で、一つの物事に対して最も考えているのは誰だろうか。それは、自分である。担当者として考えて、説明して、判断をもらう。その時点では自分がその物事に対して一番考えているし、考えていなければならない。これが極まってくると、「お前がそういうならそれでいい」境地に達する。これはブレーン冥利に尽きるというものだ。一度は言われてみたいワ。

 

さておき。

人事部について回るのが勤怠と給与である。ワークペイ。ノーワークノーペイ。働かざるもの食うべからず。働いたら食べてね。今、事業所の就労状況を確認する担当として、働き方に関する判断と、判断仰ぎをよくする。

泣く子も黙る緊急事態下、働き方もそりゃ変わるというもので、現場の皆様には大変な苦心とご迷惑をおかけしながら偉そうに「こういう風に働いてください」と伝達をする。全社の指針はあるものの、当事業所約1000人以上の従業員に対して、「こう働いてください」と指示するわけである。慣れてきたものの、大変な仕事を仰せ使っている。

この、「こういう風に働いてください」は流石に自分の判断でポイっと伝達できるものではない。然るべき立場の人の決済のもとで、伝達をする。そして、伝達までに、最も働き方に対して考えていなければいけないのが、僕だ。

 

先月下旬、大きく働き方に変化をもたらす指針が出された。当事業所でどのように落とし込んで、どう実施をしていくかを考えるのが僕の役目だった。諸々の要素からして、非常に複雑なマネジメントを現場に求めることになる。一方、効果がどこまで望めるかといえば、大きなものではない。

僕は指針として十やるべきところ、八まではやりましょう、ただ、残りの二は実施しても煩雑すぎて馴染まないし、効果も大きくないため取り入れる必要はないでしょう。といった趣旨で然るべき人に話をし、決済を得て、実施に移った。

 

この時に十まで踏ん張りきらなかったことが、僕の担当としての誤りだった。

結局、この八までやって二はやらないとした判断が、勤怠を締める際に波紋のように広がり、混乱をもたらした。最終、会社の経費を余分にかけて従業員の給与に不公平感をなくすか、従業員に不公平感は発生するが会社の経費を削減するかの判断となり、従業員の不公平感をなくす方向に進んだ。踏ん張りきらなかったから、会社はまた少し貧乏になった。

 

僕が考えたストーリーは、その時点の現場へかける負担と自職場にかかる負担とを考えたものだった。負担しか考えておらず、全部やりきらなかった時に発生する混乱について、把握はしていたが棚上げをしたのだった。安易な方向に持っていこうとしたということだ。

従業員にシワが寄る結末にしなくて本当に良かったし、そういう意味での最低限の仕事はしたのだろうが、ただ、踏ん張りきれなかったために、多くの人の余計な仕事を増やしたのも事実だった。

 

 

そうそう容易い日々は過ごしていないのだが、特に時間的制約が厳しく影響値が大きい判断を迫られた時、どこまで逃げずに考えられるかが本当に大切なのだと改めて身に染みた。

今後、きっと幾度となく同じようなシチュエーションは訪れる。負けずにまた。