徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「ととのう」の真相

徒歩5分圏内に銭湯がある。数年前に新装開店をしたようで、下町の銭湯にしては場違いな程に綺麗な銭湯だ。ここ半年ほど、足繁く通っている。

目当てはサウナだ。

サウナと水風呂。この往復により自律神経系が正されるという。巷では「ととのう」と表されるこの効能だが、その実は「ととのう」なんていう丸っこい文字面で表せるような可愛いものではない。カッピカピの紙粘土に水にブチ込んで粘性を取り戻すような、あるいは、チリッチリの癖っ毛に薬剤をブチ込み、熱をガンガン加えて直毛に矯正するような、荒療治だ。

 

長く助走を取った方が遠くに跳べるって聞いた

これはMr.Childrenの「星になれたら」の一節。

高ければ高い壁の方が登ったとき気持ちいいもんな

これも、Mr.Children、「終わりなき旅」の一節だ。

桜井和寿が歌った努力の先の達成。わかりやすい返報性の論理は、そのままサウナにも通ずる。

摂氏110度から120度に保たれた個室。四方は木。檜だろうか。大変に汗を吸いやすい材質でできている。空間が汗を流せと訴えているようだ。そんな個室の中で、ただ、熱さと向き合う。かべに取り付けられた砂時計は5分を告げる。砂の落下と汗の落下。双方とめどない。まずは10分間のサウナを自らに課す。砂が、一度全て下に落ちる。砂時計をひっくり返す。それからが勝負である。熱さと息苦しさが襲う。心臓の音がはっきり聞こえる。熱い、熱い、熱い、熱い。苦しさでいっぱいいっぱいになりながら、二度目の5分経過を待つ。情報過多の現代社会。誰しもが常に何かの情報に触れているだろう。電車の中でも、食卓でも。ところがサウナはどうだ。ただ、「熱い」「苦しい」。これほどまでに自らの原始的な感情に向き合うだけの時間があるだろうか。(いや、ない。)

僕は君と僕のことをずっと思い出すことはない

だってさよならしないなら思い出にならないから

これはBUMP OF CHICKEN「飴玉の唄」の一節。

藤原基央が歌った、思い出にならなければ思い出すことはないというある種の逆説。これはそのままサウナにも通ずる。

子供の頃、水風呂の存在が不可思議で仕方なかった。肩まで風呂に浸かるよう指導されてきた身だ。温まりもしないただの水の風呂に入るオヤジ共は何が楽しくて入っているのか。一切理解できなかった。

「思い出」にすることができないと、「思い出す」ことができない。サウナで「熱い」「苦しい」だけしか考えられなくなって初めて、「水風呂」の意味を知る。

10分間のサウナから出たての視界は、FPSで瀕死状態になった際のそれに似ている。視界が狭まり、心臓の音と呼吸の音が体内で反響する。ウォーキングデッドさながらの歩調で部屋から抜け出し、シャワーで汗だけ流して、水風呂に入る。平清盛は熱病で死んだという。死に瀕した清盛を水風呂に入れると水風呂が沸騰したという逸話があるほどだ。しかし、きっと水風呂に入った清盛はさぞ気持ちよかったのではないか。摂氏20度に満たない水に身を浸すと、たちまち、膨張していた血管が外側から冷やされるのが分かる。冷と熱のスクランブルに身体は戸惑う。が、30秒もすれば冷たさを感じなくなくなる。身体の表面は冷たいのに、内側は熱い。肺は熱いのに、喉を通る息は冷たい。いよいよ水風呂が心地いい。水風呂に時計はないが、この心地いい感覚を得るまでおよそ2、3分というところ。水風呂から這い出す。

ウァンウァン、としか形容し難い。膨張と収縮を繰り返した血管に流れる血の音なのだろうか、体内から、脳から、ウァンウァンと音がする。頭が重い。ふらつきながら、お誂向きに用意されている椅子に腰掛け、目をつぶる。視界がまわる。まぶたの裏の暗闇の中で、視界がまわる感覚がする。しかし、気持ち悪くはない。まぶたの毛細血管に血が流れるのがよくわかり、視界の周り方も相まってマンダラかのような視界が広がっていく。気持ちいいと心地いいのマーブル。まぶたの裏のロールシャッハ。身体のコントロールが効かなくなるとともに、効かない状況に身を委ねるこの瞬間が、快。この瞬間こそ、快。全身が無理なく、生命を保てている感覚となる。宇宙誕生から太陽系の形成、地球の大気発生、海の存在、生命の誕生、好気生物、水棲から陸棲へ、哺乳類、有胎盤類、ネズミ、サル、人間。全ての瞬間が、今この快の瞬間に紐づいている感覚に襲われる。ハイライトのように脳裏によぎるのはこれまでの人生の様々な瞬間。心震わせたこと、後悔と功名。人生は素晴らしい、人生は素晴らしい!

気がつくと10分15分と時間が経ち、身体が冷えてくる。再度サウナに向かう。

 

これを2回繰り返す。回を重ねるごとに人生を讃歌できる度合いが薄れるため、2回程度がちょうどいい。しかし、これが「ととのう」だろうか。やはり、そんな甘いものではないと思う。「ととのう」といえばちょっと直すとか、片付けるとかのニュアンスだろう。しかしこちとら宇宙の果てまで思いを馳せた上で生を謳歌しているのだ。破壊と構築。死からの復活。業火に焼かれて不死鳥が生き返るように、110度に熱され、水風呂に身を浸すことで生き返るのだ。

 

そんな愛用のサウナとも、まもなくお別れである。

また後日、それについては書こうと思う。