徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

結婚しました

結婚をしました。

僕はずっと一人っ子とばかり思っていましたが、弟が誕生しました。兄のような存在、弟のような存在はこれまで何人かいましたが、義理としても兄弟と呼べる存在ができたのははじめてです。生き物とお絵描きが好きで、面白い角度から世界を見渡している弟です。また、祖父祖母は死に絶えたと思ったらおばあちゃんが復活しました。京都にいるようで、まだ会ったことがないですが、早く会ってみたいなあと思っています。そしてなんと、父と母が増えました。父母1人ずつだったはずですが、それぞれ1人ずつ増え、4人になりました。増えた父はギターが好きでお肉の脂身が嫌いなおじさまで、増えた母はスポーツ大好きでギャグセンスが鋭いおばさまです。これらの変化、どれもこれもが妻のお陰です。妻という存在が生まれ、妻が家族となり、妻の家族が家族となりました。

 

妻とはテレビがついていない食卓で話をしていても違和感を感じません。黙るもよし、話すもよし。共通の趣味があったり、共通のコミュニティに属していたり、そうした共通の話題が豊富にあるわけではありませんが、例えば、変わった形の石ころを見つけたら、その話を朝晩とできるような間柄です。少なくとも僕はそう感じています。

もう少し具体的な話をすれば、昨晩、話の流れで「ファクト」という単語が出てきた際、数秒の間を置いて妻は突如首を振り始め、僕は「a fact of life」を歌い出し、その後笑い転げました。

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特に口裏合わせずともシンクロする。似たような時代を生きて似たような刺激に触れてきた気の合う人間と生きるというのはこういうことなのだと思います。

人生なぞ、毎日毎日話題に富み、毎日毎日趣味の話をするわけじゃないので、石ころの話のような日常を面白がれる人と結婚できてよかったですし、a fact of lifeごっこができる人とでないとうまくいかなかったろうなと思っています。

 

さて、なぜ妻と結婚したのか、と問われると、なんとも難しいところがあります。まずそもそも結婚したかったのか。果たして一般論として結婚したかったのだろうか、と、妻と付き合い出す前の独身時代思い返してみても、結婚への意思を強く表明したことはなかったように記憶しています。

でも、事実結婚している。妻と付き合うなかで「結婚する」という解を導き出したのはなぜか、と言えば、「タイミング」と「縁」に尽きます。こんなに信用ならない言葉もないですね。では、具体的になんだったのか。

「タイミング」とは何かといえば、僕の場合、「独身サラリーマンの楽しさを知ったタイミングだった」の、「タイミング」だと考えています。一個人の実感として、歳をとるごとに人生が楽しくなってきています。理由として思い当たるのは、人生における裁量の拡大です。今僕は東京に住み、サラリーマンとして横浜で働いていますが、極端な話、ある日突然オーストラリアへの移住を決意し、ちゃんとしたステップを踏んで会社を辞し、カンガルーと暮らしても、一切問題ありません。これが裁量です。場所も、時間も、金も、人も、歳を重ねるにつれ全てにおいて裁量が大きくなっていっている。これが、社会人なのでしょう。それも、独身の、です。社会人になって6年ほどになります。新卒一括採用により社会一般的な独身若手サラリーマンとして過ごしたこの6年は非常に楽しいものでした。苦しむも楽しむもハメを外すも真面目も、自由。雇われ、年を追うごとに少しずつ給与が上がり、歳を取るごとに少しずつ難しいことをやらされる。全てを僕なりに一生懸命やりました。とても楽しい日々でした。それもそのはずです。愚直に部活をすることしか知り得なかった青年が社会に出て、触れたことのない種類の刺激に触れたのですから。しかしこのように、「社会は楽しい」ことを知ったことで、逆説的に結婚してもいいように感じたのだと思います。きっと、楽しさを知らずには結婚の選択肢は生まれ得ませんでした。楽しみ尽してはいません。しかし、楽しいことを知ることができたことが、結婚を選ばせたと思います。

では「縁」とは何か。意訳すれば、「たまたま気の合う容姿が好みな異性と出会い、たまたま恋仲になり、たまたま両家ともにその仲を歓迎したこと」ではないでしょうか。全部たまたまで、これは不思議なことなので、誰かが「縁」と呼ぶことにしたのだと思います。僕もこればかりは不思議だなぁと感じています。妻には僕から付き合ってほしいと言い出しました。まだその頃はこの人と結婚をするとは思っていませんでしたが、付き合い出してひと月も経つ頃には、「こりゃ結婚するだろうな感」がありました。それまで付き合ってきた人とは違う感じがしたのは、「タイミング」のせいもあるでしょうし、本当に「縁」がなせる業だったのかもしれません。事実、実父実母と義父義母の関係性は非常によく、何やら楽しそうに実家同士で電話しあったりしているようです。この時世、全員が一同に会したことがなく、伝統的な婚姻のステップを踏めてはいないのですが、それでも結果としてこのような治りになっているというのも、「縁」の力を感じずにはいられません。

 

まもなく、結婚してひと月が経とうとしています。桜が満開になる頃に結婚しましたが、すでに桜も散り、道の脇にはハナニラが咲き誇っています(妻は植物に詳しく、道ゆく植物の名をよく教えてくれるので、僕も草花に詳しくなってきています。今年はハナニラを覚えました。シクラメンも覚えました。)。引越しもして、文京区民は千石の民となりました。東京に出てきて三度の引越し、4つ目の自宅です。錦糸町や蒲田とは少し趣の異なる、世田谷は仙川に似た雰囲気の街と感じています。この土地でもまた新しい縁があるのだろうなと、楽しみな気持ちでいます。

ようやっと落ち着いて物を書く時間が取れました。

また、時間と脳味噌の状態がうまく合致した時にでも、筆を取ろうと思います。