徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

そこに坂があるから走る

恩師は坂が好きだった。

鉄道オタクに、乗り鉄と撮り鉄が存在するように、坂にも好き方がの種類がある。タモリがブラタモリで語るような、地理的な坂の好き方もあれば、ちょっと前に話題になった全力坂(妙齢の女性が全力で坂を走る様を鑑賞するTV番組)のような、偏愛的な坂の好き方もある。恩師の好き方は、自身が主体として坂を走る際に、どのような負荷がかかるかを想定して楽しくなる好き方だ。つまり、トレーニングに良さそうな坂かどうかが重要であり、アスリートは身体をいじめることが好きな性分であるからして、坂があると走りたくなる、そこに坂があるから走る。このような思考回路となる。

北海道北見市の道立高校で恩師と邂逅を果たし、陸上競技を通じて師弟関係を深めた。高校から走って10分ほどの立地に陸上競技場があり、非常に恵まれた環境での競技生活だったが、毎日トラックで走るかと言えばそうでもなく、師が好む坂に行き、そこで走ることも多かった。特に冬はトラックが雪に閉ざされる。一方、急勾配な坂には漏れなくロードヒーティングが施され、非常に走りやすい環境であるため、冬の坂はしこたま走ったものだった。

僕の師に対する敬愛が特別深いのか、それとも彼の弟子全員が同様の感覚であるのかわからないのだが、僕は未だに走ることを想定した坂の見方をしてしまう。競技から離れて久しいのにもかかわらず、坂の勾配や長さから、身体をどの程度坂に委ねると大臀筋にうまく力が入るだろうか、などと思考を巡らせてしまう。

 

結婚を機に転居し、1ヶ月と少しが過ぎた。最初の1ヶ月は流石に落ち着かない日々で、婚姻報告の葉書作成(この時勢なので式や披露宴はおいおい考えることとしている)に追われ、名義変更や住所変更に追われ、と、バタバタしていたのだが、1ヶ月も経てばようやっと何も予定がない休日ができてくる。

そういうわけで、近頃走っている。場所は小石川植物園の外周である。

小石川植物園は東大大学院理学部の研究施設なのだが、標本林どころの騒ぎでなく、外周がおよそ2キロ弱ある。植物園自体は件の緊急事態宣言により閉園中であるが、その周囲は市民ランナーたちがテチテチと走る格好のジョギングコースとなっている。

しかしこのコース、非常に起伏が激しい。

小石川植物園は長方形をしている。北西から南東方向が長辺で800メートルほど、北東から南西方向が短辺で150メートルほど、周回がおよそ2キロ。この短辺が、北側から南側に向かって下る、150メートルほどの坂となる。

西側の坂を網干坂、東側の坂を御殿坂という。「小石川」の名前の通り、坂の下にはかつて川が流れていたらしい。名を、氷川とも、千川とも、小石川ともいったようだ。川は昭和の初めに暗渠となるが、地名には当時の景色が色濃く残っている。きっと川にかけた網を干したのだろう。網干坂。さもありなん、という感じだ。一方の御殿坂は、五代将軍徳川綱吉の別邸、通称白山御殿に続く坂道であったことからこの名がついたとのことだ。


この、数百年の昔に名を由来する坂道に文化のかほりを感じながら走っているかといえば、一切そんなことはなく、脳みそに持っていく酸素があるなら血液と筋肉に回したい。勾配およそ3%程度の坂に、身体を委ねながら地面を押す。半分を超えたあたりから大臀筋がアラートを鳴らす。しかし歩みは止めない。そこから腕を振る。四肢が動くタイミングを合わせるように集中する。身体がバラけないように腹筋に力を込める。リズム良く、リズム良く、リズム良く…。


老夫婦やベビーカーを押す夫婦の脇を、テチテチとジョギングする市民ランナーの隣を、ヒィヒィ言いながら疾走する男に何か目的意識があるかといえば、そうではない。

そこに坂があるから走るのである。