徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

東京より、世の中を感ず

23区に住んで10年となる。非常に聴こえはいいが、なんの大したことではなく、ただ都合の良い場所に、様々な補助を借りて住み続けただけである。親の脛や、会社の腿や、妻の肋までもしゃぶりつくさんとする勢いだ(今は妻の家賃補助の厄介になっている)。

県境を跨ぐ移動をするでないと言われて久しい。人流を抑えることが是とされる世情。しかしながら職場が横浜なもので、毎日元気に多摩川を横断している。リモートワークの指示はない。現場がそこにあるのに、のうのうと自分だけがお家でパソコンだけ叩いているわけにも行かないのだ。強い使命を持って渡る多摩川には、夏休みだからだろうか、野球少年たちが屯している。さあ今こそ、羽を伸ばせや!と、思う。

 

東京といえば、本日、過去最多の感染者数を記録した。2800幾人。誰と何とどこと比べてどうなのかはわからないが、世界中のみんなで1年半やっているコロナ禍、日本国内において最も禍が極まっている時期であることは間違いない。僕の元には、現在の職務柄、事業所内のありとあらゆる体調不良者の情報が集まってくる。本人が熱が出て休んだ、PCR検査を受ける、家族が体調不良だ、PCR検査を受ける、明後日結果が出る、居住区の保健所はなんて言っている、濃厚接触者はいるか、いつまで自宅待機か。

一切の統計をとっていない、肌感覚でしかない話だが、ここ1週間、まじでコロナウイルスが流行り出した感じがある。体調不良者の数も、PCR検査の数も、陽性者の数も、ステージが変わったのではないかと思うくらいに増えている。増えていると言っても、打率5毛の選手が10毛当たるようになったくらいなものなのだが、それでも増えている感じがある。これがデルタ型。恐るべし。首の長いキリンが登場した時の、高い位置の果実の気持ちが少しわかる気がしている。ここまで首伸びたか!って、思ったに違いない。

 

勢いを増す感染状況をわき目に、日々がどうかといえば、これは妻と穏やかな日々を過ごしている。「比較的穏やか」と書こうか、「穏やか」と書こうかと悩み、「穏やか」と書いた。これは夫としての気合いだ。僕は少し大人になった。とはいえ、妻は人間がめちゃくちゃできているので、正直、大人になる必要もない。子供でいられてしまう妻である。感謝しかない。

穏やかなリビング。テレビではオリンピックが流れる。無観客で、選手の声が不気味なほどよく聞こえるオリンピックだ。開催前から、開催是非を喧々諤々やってきて、最終的には無観客で落ち着いている。運営方法やら開会式の様子やら、国外国内隔てない世論からの苦言があり、一方ではこんなもんだろうとの意見もある。主幹となっている組織はそれぞれ真に受けてほしいと思うし、間に受けたところで同様の状況で行われるオリンピックなぞまずないだろうから、喉元過ぎれば…になってもおかしくないとは思う。そうではいけないとも、思う。

正直、この間のオリンピックにまつわる議論を聞くと、胸が苦しくなる。

これまで各々の趣味趣向をもって、様々な方を向いてきた国民が、「人類史上指折りの流行り病」と「半世紀以上ぶりに国内開催されるスポーツの祭典」が同時にやってきたことにより、一斉に同じ方向を向いたのだろう。全国民参加型の議論となった。今でも街を歩けば、命と五輪を両の皿に乗せた天秤が五輪に傾く政党ポスターが目に付く。

人が集まると感染拡大する性質のウイルスへの対策として、あらゆる国民の集会を自粛せいと統制かけ、さらには集会の潤滑油になる酒に目をつけて売るなとした。その一方で、お前、世界中から人集めるのかいと。それはどうなのよと。正しい認識かはわからないが、めちゃくちゃ論理的である。

しかし、オリンピックという無限に利害関係が広がるイベントを、はい、やーめたとできない立場の人がいるのも事実だろう。これは、想像しかできない。想像しかできないからこそ、訝しんでしまう。訝しむが、そのイベントの中心にはアスリートがいる。かつて頭のてっぺんから爪先までスポーツに浸かった身とすると、「オリンピック」にかけるアスリートの想いは痛いほど理解できる。この気持ちを蔑ろにできないというのも、一つの真だ。

誰がどこまで何をどう話しているのか知らないが、上記状況を細部まで全て加味した上で、為政者が決定したのが現状である。2800幾人の感染が、果たしてオリンピックの開催と直接関係があるものなのか、今の今はよくわからない。関係者が入国して、1週間強。持ち込まれたとみるか、それ以外のシンプルな市中感染とみるかは専門家の領分だ。

医療は逼迫している。保健所も全然業務が追いついていない。PCR検査の結果一つ、通知が遅くなっている。一方で、無観客とし、「観客(一般市民)」への感染リスクを最低限に抑えたオリンピックは、一般市民の娯楽となり、ある意味でのガス抜きともなっている。アスリートにとっては最高の自己実現の場を提供している。

国民としての僕自身の立場は一般市民に過ぎない。好き勝手いっていいはずなのだが、僕は、正直どの立場を取っていいのかわからない。自分が意思決定をする立場として、全ての情報をもらった上で、どの判断を下したかと思うと、胃が掴まれるような思いがする。

 

よくよく調べもせず、目に入る範囲の情報で、頭の余っている部分だけを使ってでしか、物事を考えられていない。だから、ちゃんと調べたら全く違う世界が広がっているのかもわからない。でも、そこに割く体力があるなら、寝て、スッキリした頭で仕事行った方がいいやと思っている。その程度の話である。

が、これだけ書けてよかったとも思う。胸のつっかえが取れた気がした。

東京より、世の中に感じたことの、素直なところである。