徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

チキンかあさん煮定食

このところ、不適切動画で不名誉な看板を掲げてしまっている大戸屋である。アルバイトの管理、教育は難しいですね。SNSに、便利に殺されている感じ。管理しきれないテクノロジー。普段技術を使って万象を飼い慣らしている気がしている愚かな人間諸君、今すぐハイデガーを読みましょう。

 

技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)

技術とは何だろうか 三つの講演 (講談社学術文庫)

 

 

どうあれ、昨日夜ご飯が大戸屋だった。

ファストフードとファミレスの間の価格帯で、そこそこ値段をとるけど、そこそこちゃんとしたご飯を食べられる。何より、弊最寄駅の高架下にあるので、そこそこに便利だ。そこそこ頻度で利用している。そこそこの総合力。全区間7位あたりの区間順位でそこそこ走って結果総合4位みたいな強さが、大戸屋にはある。

僕は大戸屋の黒酢あん定食が好きだ。ほぼ一択。迷わず黒酢あん定食を食べる。迷うのも力がいるから、脳みそを止めて、機械的に黒酢あん定食。淡々と黒酢あん。

なのだけれど、昨日はチキンかあさん煮定食を食べた。

ご存知のかたも多いだろう。黒酢あん定食と並び立つ大戸屋の4番サードな定食だ。それこそ、黒酢あん定食や蒸し鍋定食など、説明口調というか他人行儀な定食名が多い中、チキンかあさん煮定食というネーミングの飛び抜けたキャッチーさ。キャラ立ちがはっきりしていて絶対ただのモブじゃないと確信させられる。

これまでの大戸屋ライフにおいて、視界の隅では確かにチキンかあさん煮定食を意識していたものの、頼むことは多くなかった。入店の時点で僕の脳裏にはすでに黒酢あん定食が居座っており、チキンかあさん煮定食の入り込む余地がなかったからだ。

何を思ったか、何を感じたか、サブリミナルの畔からのサインに任せて頼んだチキンかあさん煮定食。衝撃的な出会いだった。

そもそも、ビジュアルを想像できるだろうか。ハイデガーを今手に取ろうとしている人間諸君。チキンかあさん煮定食と言われ、その造形を想像できるだろうか。大戸屋のサイト貼っておくので適当に見てみてください。

www.ootoya.com

チキンカツと根菜やら大根おろしやらが旨味たっぷりの出汁に浸かり、煮詰められている。かあさんがいつか作ってくれた優しい味に似ている。故郷を思い出す。チキンかあさん煮定食。

確かに、出てきたものはこのチキンかあさん煮定食だったのだけれど、驚いたのがその煮詰められ方だ。

猛烈に煮立っていた。原初の海のごとく、煉獄の風呂のごとく、出汁のあぶくが鍋の底からグラグラと溢れている。チキンかあさん煮の優しい音感とは全く異なる、怒りにも似たパッション迸る鍋が目の前に運ばれてきたのだった。チキンとかあさん。臆病なほどに優しく、繊細な心配りができそうな語の組み合わせからは想像がつかないほどの煮立ち方はおそらく「ビーフストロガノフ」の語感の方ががマッチしていただろう。ビーフもストロガノフもしていないけど。ちなみにビーフストロガノフはストロガノフ家で作られたビーフ料理だからビーフストロガノフの料理らしいですよ。

 

火の通り方、煮立ちのインパクトは強烈だったものの、味は至って美味だった。身体にも良さそうですね、チキンかあさん煮定食。あんだけじゃない、大戸屋の新たな味に出会いました。ただ、それだけの話です。

目には目を

何がとはわからないけれどどことなく心身ともにだるい気がしながらも、引くに引けないからといってぎゅうぎゅうの核弾頭に身体を突っ込んで出勤しているサラリーマン諸君、お疲れ様です。僕も同じようなものです。ご苦労様です。
なんでだるいのか。なぜ、憂鬱なのか。そこまでは行かないまでも、休日が幸せという世の中の通念からして、なぜワークデイはホリデイに比べて幸せではないのか。土日を待ち焦がれる心、月曜日が憂鬱なマインドとは。学生時代もそうだった。学校が楽しみで楽しみで!というあの感覚は、多くの人が小学1年生あたりで卒業する。小学20年生、30年生になってしまった僕たちは、あの瑞々しい楽しみ、じゃんけんしよ!で友達になれてしまう魔法のようなコミュニケーション能力の応酬は忘れてしまっている。デスクにかじりつき、叱責に怯え、声が詰まり、ブルーライトに目がチカチカしながら無為の日が暮れる。そりゃあワークデイ楽しくないわ。そらそうだ。

人間関係とか、相手が存在する種類の憂鬱を自分の努力一つで解決するのは大変に難しい。相手の人生と自分の人生、社会に出るまでと出てからの環境において大概凝り固まった人間性同士があわないとか、圧倒的偏屈な人間性を持った相手が君臨しているとか、どうしたものかと思う。そうではない悩みの種類、明らかに自分に原因が帰属しているもののほうが解決しやすいようにも見える。自分が変われば、自分がやればいいから。

ミトコンドリアの内部構造のごとく入り組んだ社会、発生する問題を、とかく難しく捉え、目をそらしながら休日を貪り、月曜日の電車に吸い込まれれていっている。だから休日が楽しいのでしょう。
でも結局、これ、当たり前だけど目には目をで戦って行かないと本当に健やかな休日なんて訪れない。積み残された仕事と人間関係に向き合わないことには、全てを忘れた素敵な休日とさわやかな月曜日の朝なんて来ないのだ。
逆説的に、連綿と仕事が仕事を呼ぶ現代社会、人と人がコンタクトし続ける世の中である限り、諸問題は発生し続けるのですね。酷い話だ。

何本かネジ外て鈍感さを担保しながら、やっていきたいものである。目には目を、直視するのはとにかくストレスたまるし、そのストレスからも逃げたい気持ちはわかるけど、全ては健やかさのため。
勤労の気持ちをもって本日も。

宇多田ヒカルのtime well tell とColorsから見る青空について

かねがね思ってた事を書く。

平成を駆け抜けた日本人であれば誰でも知っているであろう宇多田ヒカル。20年近くになる彼女のアーティストライフの中で、僕が所有するのは2005年とかにリリースされたベストアルバムのみ。付かず離れずの宇多田ライフを享受してきた。

表題の二曲は件のベストアルバムに収録されている。

time well tell は宇多田ヒカルのデビューシングルで、確かAutomaticと両A面か何かでリリースされたもの。colorsは、time well tell より7、8年後、何かのタイアップソングとしてリリースされていたはずである。

この二曲、どちらも詩の中に青空についての言及がある。しかしそれぞれ全く捉え方が違うのが面白い。宇多田ヒカルの成長を感じられるし、全く違う方向からだけど、どちらの詩も背中を押してくれるものだ。


青空、みなさん見えてますか。

下ばかり見てないですか。


time well tell 

この曲で表される青空は、おそらくJ-POPではよく形容される青空である。

「雨だって雲の上へ飛び出せばalways blue sky」

例えばスピッツも初恋クレイジーという楽曲でこんなことを歌っている。

「優しくされない時も 優しくなれない時も 隠れた空は青いだろう 今もまだ」

雨の日も雪の日も曇りの日も、雲の向こうを考えたらいつだって空は青いよ、だから問題ない、頑張っていきましょう。そんな話。なぜ空が青かったらなんとかなる気がするのか、青い空にそもそもどんなメタファーが込められているのか、そんな細かいこと知ったこっちゃないが、明けない夜はない、長いトンネル抜けた先には雪景色か夏の海か。それらと同じような論法である。なんとなくやれそうじゃん。

しかし、この論法は雨に当たっている人に相当の努力を要する。

「雲の上へ飛び出せば」と言っている。簡単にいうが、雲の上へ飛び出すなんて並大抵のことじゃない。人間の歴史のなかで雲の上へ最初に飛び出たのはおそらく気球を発明した時だろう。次ははるか飛行機の登場まで待たねばならない。物理的にもぼくらはしばらく雲の下で生きてきた。というのに、隠喩の世界だとはいえ、雲の上へ飛び出すのってめっちゃ大変だ。というか、雲の上へ飛びだせる人は黙って飛び出してalways blue skyな世界を生き続けているパーリーピーポーだし、励まされたいのは雲の上へ飛び出す術を持たない僕ら人間だ。

当時の宇多田ヒカルの勢いが伝わってくる歌詞だし、本質的な青空を享受するにはこの方法しかないのだが、現実的解決策としては今ひとつ実現可能性に欠ける。


そこで、Colorsだ。この曲の青空は一味違う。

「青い空が見えぬなら青い傘広げて いいじゃないか キャンパスは君のもの」

どうだ。この気の楽さはどうだ。別に雨が降っていても曇っていても良いじゃないか。別に空の上に飛び出す必要もないだろう。青い傘を広げて、ごまかしながらでも生きていけるならそれで良いじゃないか。すでに君は頑張っているもの、これ以上、パンクするまで踏ん張らなくてもいいよ、仮初めの青空でも、君の気持ち、君の人生が楽なように、心のキャンパスを塗りつぶしていけば、それで。

これ、優しくないですか。一般的な日本人にはやっぱりこっちのほうが心に沁みていくんじゃないだろうか。雲突き抜けろったってなぁって、斜に構える諸君のための、宇多田ヒカルからの救済。宇多田ヒカルの成熟も見て取れる。


どう解釈しても、現実は一つだし、困ったって悩んだってどうにかするのは自分と周りの人しかいない。どんなに雨でも雪でも雲の上はたしかに青空で、そんな天空に思いを馳せられない程に苦しい時は青い傘広げればいいと思う。その時、その時で、心地のいい青空論に身を浸し、今日も頑張っていきましょう。では。

アーティスト従兄弟と会った

5年ぶりに従兄弟と会ってきた。名古屋在住、36歳の従兄弟である。僕らの親は4人兄妹で、今日会ったのは一番上の姉の次男。僕は末っ子の長男。ある程度年が離れるのも然もありなん。

彼はサラリーマンをしながら絵を描いている。素人と括られるんだろうけど、趣味が興じまくっていおり、どういう脳みそでどう製作したらこういった絵が描けるのか、傍目では分からない。とても精緻な絵を描く。部屋には画集がつまれており、生活感と製作環境がごった煮になった1DKに住んでいる。一方、僕もそれなりに音楽をやり、一般市民に対しては特殊能力として披露できる水準までやれてきている。僕も従兄弟も、その道に進むにはあと30光年くらいの隔たりがあるとの認識。素人目に見たら強者だけど、業界に入ったら有象無象。似た境遇だ。

絵と音楽。フィールドは異なれど、互いに芸術と括られる趣味に埋没していると、自ずと話しが合う。同じ山に違う登山口から登っている感じだろう。たかが血の繋がりだけど、趣味と話が合う親戚はいいものですね。近くに住んでてほしい。


さておき、話をしていると、なぜ創作をしているかのような話となる。動機とは。創作に向かうエネルギーはどこにあるか。

この度従兄弟と言質が取れた。自分がいいと思っているもの・ことを表現するために創作をしている。言語にブレイクダウンされる前の、漠然とした「良い」を表現するために我々は創作していると。文脈は忘れたが、以前別の友人と、「自分で描いたエロ本が自分にとって一番エロい」みたいな話で盛り上がったことがあるが、まさにそれである。自分がいいものを出力したいという、ジメジメした自意識と自己満足の螺旋こそ、創作の原動力となっている。

音楽だと歌詞と曲の二面があるから、曲は自分の気持ちいい曲を作り、そこに自分の感情を言葉で乗っける。リズムと節の制約をうまく味方につけながら、自分の深淵に降りていき、言いたいこと、表したいことをクリティカルに言う。詞も曲も全部気持ちいい作品が生まれる。自分の曲が一番好き。俺得のための創作。

従兄弟はなおのことストイックで、「自分の良い」を引き出すためには技術が必要だから…と、週40時間を目標に描きまくっていると話していた。狂っている。労働か。しかし、仰る通りで、100メートル10秒で走れる人は11秒でも走れるけど、11秒でしか走れない人は10秒では走れないんですよね。何言ってんだって感じでしょうけど、つまりは、表現したいことを技術的に完全に補完していないと表現しきれないってことが言いたい。そのためには筋トレ的なゴリゴリした練習も必要だと。そう言いながら、従兄弟、めっちゃデッサンしてた。昼夜問わずダビデ像を取り憑かれたようにデッサンしてた。日中、普通に働いているお兄ちゃんが家に帰ったらダビデ像をデッサンしてるのめっちゃ良くないか。良い従兄弟を持ったと思う。いいとして、やっぱこういう努力が必要なんでしょうね。僕も家帰るなりジェフベックのコピーとかをすれば良いんですよね。わかってはいるのだけれど、ギターもベースもピアノもあらゆる楽器がある中で、スキル向上しようったって優先順位が取っ散らかってしまう。別にギタリストになりたいわけでもないし…っていつもいつも逃げている。正面から向き合わなければな。でもやっぱり無理っぽいから演奏は外注したいな。バンドやろうぜ。

また、従兄弟は絵にリソースを投下するために仕事のストレスを能動的に軽減している。これがうまい。自分の得意とするフィールドで労働をして、時間的にも圧縮してたし、技術的にもストレスなく働いているようだった。今の自分に猛烈に足りていない要素である。やっぱり足掻いたところで人間の力って有限で、全部が全部頑張れない。仕事に時間と心の労力を持っていかれてしまったら創作に力が入らないと言うものだ。こればかりは自分じゃどうしようもない。けど、一つの生き方として従兄弟のそれは秀逸だった。サラリーマンは社会的な立場として楽だけど、その庇護の元で世の中で戦う別の柱を建てるのも大切なのだろう。


36歳と26歳、側から見たら漠然とした万能感をいだいている痛い青年2人なのかもしれないけれど、当人たちは至極真っ当に自分の創作と向き合っている。願わくば好きな創作だけを繰り返して生きていきたいと思っている。

そうなるためには、個人的ユートピアを確立するためには、一定程度の社会に自分の吐き出したそれを認めてもらわなきゃいけないし、一定程度の同類を倒さなければならない。修羅の道である。雇用されている安寧のほうが余程楽だろう。でもこればかりはね、趣味趣向ですから。

お互い、創作に精を出しましょうねと契り、別れた。

ほんと、話の合ういい従兄弟を持ちました。感謝。

茶渋・コーヒー渋に悩む前歯に救いのブラシを

電動歯ブラシの威力について何一つとして語る術を持たないのだけれど、個人的に、ここ最近の口腔事情への課題意識と問題意識はとても強い。止まない憂慮が渦巻いている。

何って、茶渋・コーヒー渋だ。

常軌を逸した飲み方をしているなら、話はわかる。湯水のごとく、ガス交換のごとく、コーヒーを消費する輩が、前歯真っ黒の業を背負うのであればそれはいい。背負え、墓場まで引きずっていけと思う。でも、私、そんなにコーヒー飲まないじゃんか。飲んでせいぜい1日1杯2杯じゃんか。コーヒーを覚え始めた高校生程度にしか飲んでいないと言うのに、無垢な笑顔に不可欠な前歯は茶渋に汚されていく。ふくよかな平安貴族だったらよかったかもしれない。平成末期の一般市民がお歯黒をしたところでどうにもならない。


数十歩譲って、ノーメンテナンスかつ適当歯磨きであれば情状酌量の余地もないと言うものだが、当方、歯のざらつきが嫌いな歯磨きマンであり、なんだったら1ヶ月前に歯垢落としをしたばかりである。抜群の口腔環境で然るべき条件が整っているのにも関わらず、この体たらくである。お先真っ黒。


どうなんですかね、これ、自助努力でなんとかなるものなのでしょうか。今、歯ブラシも歯磨き粉もデンタルガムを使っているのですが、機種変すれば大なり小なり歯垢や茶渋のつき方は変わってくるものなのでしょうか。

いーって、笑いたい。臆面もなく、いーって、したい。でも今のままじゃできないーっ。

歯医者もバカにならんので、どうにかしたいと思います。

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コーチングを受けてきた

人事屋さんも半年が経ち、全方位砲撃型ミサイルに蜂の巣にされることがデフォルトに、穴が空いている状況にも慣れてきた。一生懸命やったすえの蜂の巣なら仕方ない。

人事も労務管理が今のお仕事なのだが、労働体制や安全衛生が我々のテリトリーのため労働組合の方々とも懇意にさせていただいている。その一環として、「労使手を取り合って従業員のためになる教育の場を設けましょうの会」があり、事務局として色々な先生やら企業と繋いでいる。

上場企業の端くれで、従業員の教育にも一定の予算が用意されている。これ幸いと、著名な方・上場企業の代取など、人生を使って相当な何かを成し遂げている人を招聘している。先月講演頂いた講師の方が大変人格者で、世のため人のため、若者のために自らの経験やスキルを還元したいという考えの持ち主だった。打ち合わせ段階から懇意にさせていただいていたので、折角だからと、先日お会いしに行ってきた。

彼は大きな会社の取締役なので、鵺のような質の持ち主には違いないのだが、ものすごく物腰が柔らかい。偉い人にありがちな「あれ、俺やった」症候群に罹患してもおらず、その昔人事にいたとき、組合と会社の板挟みにあい、公園でブランコに3時間揺られた話を朴訥とする。「辛かったけど、家庭があったからやめられなかったよね。」めっちゃ辛かったと思う。よくもまあそんなケロっとしているものですね。


世間話が対話の趣旨ではなく、コーチングが趣旨だった。

コーチングって何か、詳しくはちょっと把握していない。わかる範囲で誤解も恐れずかいつまむと、アドラー学派で頻繁に行われているらしいセッションで、日頃抱えている問題をガシガシ深掘りしていって、人の深層にある考えを表象させる。クライアントは自分の深層に考えを下ろしていき、コーチはそのハシゴを下ろす。結果、自分の悩み、自分の考えの本質を掴めたら、それに基づいて小さな一歩から踏み出していきましょう。なんか、そんな感じの話だった。


個別、コーチング内容などは置いておき、では概要としてどうかといえば、大変に有益なものだったと思える。

前提として、世の人間は自分のことを考えることを回避している人が多い。問題を直視して、それをガシガシ掘っていくって、自分の一番情けない部分にレモン汁を垂らしまくるみたいなものだ。痛いしやりたくない。僕だってこれだけ書いてきたけど、本質はうまく回避して書いている。そうじゃなきゃ書けない。一方、コーチングします!というおおっぴらに問題直視の機会を与えられ、恥も外聞もかき捨てて自分と向き合えるのは大変にいい時間だったし、効能もあったように感じる。

自分で降りていけない深みにはまり込めるメリットの一方、「その先どうするか」は自分次第なのも事実だ。インドに行って、チベットに行って、ペルーに行って、人生観が変わったところで、それは「観」が変わっただけだ。他人から見て変化があるわけでもなく、動かないと何も変わらない。コーチングも一緒で、考えているだけじゃまったくもって意味がない。一歩目をどこに置くか。本質らしき何かをつかんだ先に、どうするか。それが重要だし、それしか重要じゃない。別に対して悩まないで行動レベルで変えられる人はコーチつける必要はないと思う。でもそういうサイコな人ばかりじゃないから、やっぱりコーチングの意味はあるのだろう。


しかし、なぜこうも動きを変えるのは難しいですかね。

ギターやピアノもそうで、すぐに手グセに逃げる。手グセをどこで習得したのかもわからないが、「いつも通り」「癖」は楽だ。考えなくていいから。動きを変えるにはやっぱりある程度心の力が必要で、それを蓄えたくて皆自分探しの旅とかに行くのだろう。で、人生観が変わって、普段通りの日常を送ると。


バラバラと書きましたが、みなさん、全ては行動です。

行動が考えと結びついているのであれば、考えを変えるのも一つですが、とりあえず何も考えないで行動を変えられるならそれでもいいかもしれません。動き変えてみましょう。人生観変わるよりもよほど変わります。

さて今日も。

オンラインサロンと寂しさについて

世間は花粉に戦々恐々としているらしい。僕も去年の春には花粉症の兆候のような、なんとも言えない目元の重さと熱だるっぽさを感じていたのだが、今年はまだ来ていない。この先爆発するのかもしれないし、道民として暮らした18年の蓄積が無い分まだ閾値に達していないだけなのかもしれない。自分の身体がどういった状態にあるのかが把握しきれていない。大体誰もそんなものだろう。

それにしても、今日は驚くほど暖かい。仕事柄、次から次へと投げられて来るボールを打ち返す日々であるために、ひと段落も何もないのだが、本日は比較的心穏やかに日和を受け止めている。三年くらい前の暮らしっぷりを彷彿とする過ごし方だ。日がまだ昇りきらないうちに家事という家事を終わらせ、太陽がやっと本気を出してこようというころには自由の身となる。何をするにも自由の幸せを噛みしめるのが好きだ。予定が何もないと、無為にギターを弾き、ピアノを弾き、特に作っても作らなくても変わらないような曲を作る。打ちっ放しにでもいく。予定があれば、約束の時間よりはるか早くに現地に入ってフラフラする。異国の地を踏みしめているごっこがしたいだけだ。


家事を片付けていく際、テレビをつけっぱなしにしておく日と音楽を流す日がある。気分次第だ。今日はテレビをつけていた。日テレ。スッキリ。「オンラインサロンが流行っています」なる特集があった。一人の有名人・著名人のもとに皆がお金を出して集い、コミュニティ圏を形成する。グルメのコミュニティ、面白そうなことならなんでもコミュニティ、ファッション関係のコミュニティ。その他諸々…。従来のような有料ブログとは違い、出資者たちの交流が生まれるのが特徴であるらしい。参加者は少なくないお金を払いながら、自分の趣味趣向へ投資し、合わせて普段の暮らしでは会うことのない人たちとの交流を楽しんでいた。

特集を見てみて、世の中の人の寂しさを感じた。それは、僕も感じているし、誰しもが感じている寂しさなのだろう。

現実世界が「オフ」になって久しい。「オン」の世界は「オフ」の世界なんかよりもよほど広がっていて、日本中世界中の人たちと時差も距離も関係なく交流できる。事実として、そういった環境が整ってしまっているのに、当たり前だけど僕らの生活は「オフ」が主だ。広がり続ける「オン」を、縦横無尽に使いこなせている人も多くない。どこか「オン」には怖さや得体の知れないものがあると感じている。「オン」の万能感と、「オフ」の現実。「オン」の喧騒と、「オフ」の静寂。凝り固まった「オフ」に、ある程度の安心感をもって「オン」の要素を取り入れられるのがオンラインサロンなのだと感じた。寂しさを旗の下に持ち寄っているんだろう、きっとみんな。


中途半端に世界が開けてしまっている。僕らはきっと、リードにつながれながら、開いたドームの屋根を眺めている状態だ。もちろん、ドームの屋根を開けた奴も、リードをちぎってドームの外に出て行った奴もいる。でも、大多数はリードにつながれながら、それはそれとしてリードの経済圏を回し、リードの範囲内で一喜一憂を繰り返す。前まではそれが当たり前だったのに、世界が見えてしまっている手前、自分の存在が矮小に感じてしまう。

すごくわかる。焦る気持ちもわかる。

開いた世界に飛び出すも、分不相応と考えるも、どちらも人生だ。

オンラインサロンや最近のmixiを、リードを緩めるツールとして利用するくらいがリスクもなく楽しいのかもしれない。


歴史は繰り返すとすると、きっと今はひとしきり維新の波が終わり、異国文化が世間に降りてきたころの日本、大正時代のそれに近いんじゃなかろうか。90年代のインターネット勃興期に開いた花のタネが世間に降りてきている。

大正時代は豊かな時代だったとそこはかとなく聞くが、果たして今はどうなのだろうか。

寂しさを認知できたのが幸せか、目隠しされたままが幸せか。果たして。

利きトイレットペーパー

拭いただけでトイレットペーパーの種類がわかるとかいう話ではなく。


皆、利き手があるだろう。お箸を持つ方の手、鉛筆を持つ方の手、ボールを投げる方の手。左利きの方が総数は少なく、才気あふれる人が多いやら何やら。サッカー選手や野球選手には両の手足を等しく使える人が沢山いる。左右差をなくしたいらしい。ゴルファーだって、右でも左でも打てる人が多い。しかし、彼らですら、生粋の両利きではなく、努力の賜物の両利きだ。


そう、話をしたいのは、便座に座った際、トイレットペーパーが右に設置されているか左に設置されているかである。


僕の実家は、右だった。右に馴れ、右に親しみ、18年間右トイレットペーパーを貪った僕は右トイレットペーパー利きになった。外のトイレに入って、左に設置されていたら、心底の違和感を感じながらトイレットペーパーを引き出していた。

転機が訪れたのは上京の際だ。

アパートのトイレが、左トイレットペーパーだった。

これには参った。昨日まで右で持っていた箸を、左で持てと強要されるに等しい話だ。諸君、そう言われてすぐに対応できるだろうか。簡単ではない。当然、難しい。きっと食事が億劫になるだろう。同じだ。僕もトイレが面倒になった。左トイレットペーパーを嫌い、右トイレットペーパーを懐かしんだ。しかし、容赦なく左トイレットペーパー使用の機会は訪れる。仕方なしに左トイレットペーパーをする。そんなことを繰り返しているうちに、左トイレットペーパーも得意になってきた。練習は力。継続は力。


このアパートの四年間を経たことで、晴れて僕は両トイレットペーパー利きになったのだが、やはり18年の重みは大きく、右のほうが得意ではある。

誰も口に出さない話かとは思う。おまえ、トイレットペーパーどっち利き?とかまず言われないし、気にもしていない人も多いだろう。でも、絶対に得意な向きがあるはずなのだ。


あなたのトイレットペーパー、どっち利きですか?


これを言いたくて、明日は多分眠い。

傘との相性

生理的に無理、なんか合わない、嫌われてる気がする、仕草が気に食わない。僕らの人間関係は好き嫌いと気に食う食わないが組んず解れつ絡まり合って、ちょっとやそっとじゃ理解できない。遠くから見たらうまくいってそうな集団もよくよく見たらバラバラだったりする。さも、モザイクアートに似たり。

 

好きとか嫌いとかは抜きにして、どうしても相性が悪い存在。何を隠そう、傘である。

傘は、傘だけは、僕の手からたやすく離れていってしまう。ビールのジョッキ、箸、枝豆の類、マイクやタンバリンの類は掴んで離さないのに、傍にある傘だけはなぜか掴めない。

せっかちでもないと思う。せかせか出来るほど、動きが俊敏じゃない。記憶力がグズグズなわけでもないはずだ。仕事は別として、友人各位の他愛のない話なんかは結構な深さで記憶に刻まれている。なのに、傘を自分が持ってきた事実を簡単に忘れる。外に出て、降ってる雨を見て思い出すし、雨が止んでたりしていたら延々思い出さず、次の雨の日に、自分が傘を忘れたことに気がつく。

高価で、いいものを持っていたら意識するから失くさなくなるなんてことはない。猿に半導体を渡すようなものだ。価値も知らずに確実に壊す、確実に失くす。

 

もはや傘を失くさない人の気が知れない。よくもまぁ、傘の存在を脳みそに取り留められる余裕があるものだ。席を立つ時、店を出る時に、傘がなぜ頭をよぎろうか。傘…傘…と念仏でも唱えているのだろうか。僕も、傘を店に置く時には思うのだ。あ、これ忘れて帰るだろうな。今のこの気持ちを、店を出る時も忘れないようにしような。と、切に考えた末に、簡単にロストする。馬鹿である。たまに泥酔時に傘をきっちり持って帰ったりして、酒の功名を感じたりもする。

 

そういうわけで今日も雨であった。帰りには雨は上がっていた。僕は、見事に傘を忘れてきた。

次の雨の日、コンビニまでの間を僕は濡れながら歩くことになる。晴れの日に傘を買うしかないが、晴れの日に傘なんて頭に浮かばないからだ。学びもせず、ただ、忘れ、濡れる。

業を認めながら、進んでいく。

定期的に書くということ

熱心な読者の皆様、ご無沙汰しております。日々日々、朝に夜に、悲しみに喜びに、画面へと向き合いキーボードを叩き続けて早5年。こんなにも文章を書かなかったことはなかった。理由は簡単である。書く時間がありませんでした。

しかし、僕は時間がなかったという言い訳は嫌いである。仕事の話ではない。日常の、趣味の話だ。時間がないから習い事をやめただとか、練習できないとか、ジム行くのやめたとか、そういった類のことを宣う人が多いが、本当にやりたかったらどんな時間を削ったとて趣味に向かうだろう。時間があったら、お金があったら。バカなことをいっているんじゃない。作るんだ。作ってまでやらないことは、どうせ何があったってやらない。

ブログにまつわる執筆作業についても、これまで結構重きを置いて、時間を割いてやってきた。しかしここひと月程度の体たらくを見てみろ。書かなくなった。つまり、時間を割いてまで行おうと思わなくなったわけだ。いつだって言い訳は簡単である。家に帰ってシャワー浴びて寝支度整えたら午前2時、翌朝6時起床みたいな日が続く中で、時間を作ろうとするのが難しい。それもわかる。しかし電車の中で寝てる時間もあるだろう、本当にやりたかったら寝る間も惜しむだろう、使おうと思えば使える時間はたくさんある。なぜやらないのか。優先順位の低下以外のなんでもない。

執筆活動に心を救われているものと思っていた。書く、気持ちを出力することで、自分の感情を客観視できるし、指の滑るままに打ち込んだ文章が考えてもいなかった自分の思いをうまく映していていて、これが言いたかったんだと納得することもある。自浄作用にも似た書き物の作用に生かされていると思っていたが、どうもそれに依存しなくても生きていけるらしい。

感情のキャパシティは各人に備わっている。些細なことで感情が溢れてしまう人もいれば、どう見ても苦しいだろうに平然としている人もいる。問題は、キャパから溢れた部分の感情をどうするかである。執筆はこの部分に関して大変有効だ。裏を返せば、日常的な執筆は、感情処理ツールのメンテナンスにはなるが、それ自体に自浄作用はない。

 

もう忘れてしまったけれど、毎日のように文章を書いていた頃は、些細なことにも感情を向けられるような優しい人間だったのかもしれない。感情が溢れて、書く必要に迫られて書いていたのかもしれない。もうそこまで優しく世界を見れる余裕もなく、かといって不平不満で溢れまくるほど荒んでもおらず。結果、書かず。

 

無理ない範囲で、やれるだけで、やっていきたいですね。

こればかりが人生でもなく、人生の余剰分をこれに充当していければ面白いですね。