徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

息子が生まれました

昨日、息子が生まれました。妻と二人で2年半ほど、それは楽しく暮らしてきましたが、なんと一人増え、三人家族となりました。

20代前半の頃、雑談や飲み会などのなんでもないコミュニケーションにおいて、「将来子供欲しい?」みたいな話は比較的よく上がる話題だったと記憶しています。30代に入り、子供関係の話は大いに配慮しなければいけないお年頃になってきましたが、若者の間であれば、子供欲しい?くらいはまぁよく話題に出るでしょう。その際、僕は「自分に似た他人が自分の知らない未来をどう生きるのかに興味がある、だから子供は欲しいと思う」と、わかるようなわからんような理由をつけた沸切らない解答をしていました。そうこうしているうちに、自分に似た他人が誕生したわけですが、今、息子を目の前にして、自分の知らない未来をどう生きるかなんてことは微塵も思いません。かわいい以外の感情は脳内から爆散し、スペースデブリとなってアンドロメダの彼方まで飛んで行ってしまいました。

当初、妻との間では、そのうち子供できたらいいね、くらいの真剣さで構えていました。しかし、僕のキンタマが望外にポンコツだったこともあり、緩い構えでは時間の切っ先に差し込まれて身動きが取れなくなるとの危機感のもと、結構なスピードで妊活を駆け抜けていきました。昨日生まれた子は顕微受精なる、そこそこマジな不妊治療によって授かった命です。現代医療の力がなければ、僕は親になれませんでした。「自分に似た他人が〜」なんてスカしたことを抜かしてる場合があったらさっさと静脈瘤を結索した方がいいよと、あの頃の僕に忠告してあげたいです。

妻のお腹の中の命がどんどんと大きくなっていくにつれ、嬉しさと共に寂しさがむくむくと育っていきました。何しろ、妻と二人の生活が楽しかった。新しい命が生まれることで、二人の生活が崩れていくような気がして、怖いような、不安なような、そんな気が強くなっていきました。望んでいたはずの変化が目の前に迫ってきた時に、急に変化が怖くなることは、よくあることなのでしょう。上京するときの不安や、就職するときの不安、それに類する感情だったように思います。妻と二人で、これまでの生活を反芻するかのように語らいました。本当にこれまでの生活が楽しかった。楽しかったからこそ、名残惜しく、寂しい。寂しさこそ、これまでの生活が楽しかったことの証明なんだ。最高の結婚生活だった。きっとまたこれからも三人で送る最高の生活が待っているはずだ。きっとそうだ。

破水は突然でした。

仕事中に妻から電話がかかってきて、破水した、病院に行く、と話した次の瞬間には妻は入院しており、僕は早退して自宅で待機をしていました。結局陣痛は来ず、翌日誘発剤を使って陣痛を起こし、分娩に臨むこととなりました。

立ち会い分娩を希望していたので、分娩当日は一緒に陣痛室兼分娩室に入りました。壮絶な場面でした。陣痛の初期の頃は、お尻の辺りを握り拳で押し込んで、痛みを散らすお手伝いができていました。ただ、いざお産が始まると、妻が小刻みに痙攣するほどにいきんで、息子が狭い産道に体をねじ込みながらなんとか外に出ようとしているのに、僕はひたすらに妻の汗を拭くマシーンにしかなり得ず、男親の無力感を味わいました。冗談めかして言っていますが、妻と子の頑張りは僕の持ちうる言葉で表せないほどのものでした。最後、妻が振り絞るようにいきんで、助産師さんが息子を引っ張り出した瞬間。息子の姿を見ることができました。血と羊水に塗れてどろどろだけれど、なんとか息をしようと口を開けている息子がいました。溺れたように喘いでいた息子が、口の中を掃除してもらうと、元気に泣き出しました。本当に、忘れ得ぬ光景になりました。

 

はたして、三人家族になって丸一日ほど。妻と息子はまだ病院にいます。妻と話した不安は、今のところ顕在化しておらず、これまでのようなやりとりを続けています。面白おかしく、時間が過ぎていっています。その中心には息子がいます。何しろ、かわいい以外の感情は脳内から爆散し、海の藻屑となってマリアナの最奥まで沈んでいってしまうほどの息子です。写真フォルダは息子以外何もなくなり、自宅は息子を迎えるための形態にフォルムチェンジをしました(おとうさん頑張りました)。全てが息子を中心に回り始めています。僕の親と妻の親は、呼称をおじいちゃんとおばあちゃんに変更しました。僕らが息子の写真を親族のグループラインに上げるたびに、将来はピアニストだ、目が賢そうだ、何かの思索に耽っている顔だ、などと、好き勝手な話をして盛り上がっています。息子を中心として、同心円上に喜びの輪が広がっているようです。

いざ、親の立場になってみると、「自分に似た他人が自分の知らない未来をどう生きるのかに興味がある」というのは無責任なところがあったなぁと思います。自分に似た他人とたくさん関わるのは自分です。ならば僕が、未来を面白がれるような、未来を楽しめるようなヒントの種を、自分が手に持っている分だけ息子に渡してあげたいなと思います。未来には腐って使えないものばかりかもしれないけれど、もしかしたら芽くらい出るかもしれない。それを使って、人生を面白がってほしい、そしてそのとき、息子を中心として、同心円状に喜びの輪が広がっていたらなんといいことだと、思っています。

なーんて、生きているだけで本当に可愛い。かわいい以外の感情や理性は脳内から爆散してニュートリノ大の素粒子の如く何百光年も彼方まですっ飛んでいっているので、生きている以上のことはもう望まない!