徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

比較的

今、目の前にある感情や物事を、相対化して捉えると、気持ちが楽になることがある。「比較的」楽になると言うやつだ。比較的。この言葉を使うとき、僕らは何と比べているのだろうか。「比較的」は、客観的に事物を比較するときにも使うが、主観的に体験や感覚を語るときにも使う。「比較的こっちの方が好き。」とか、明確に比較する対象がないにも関わらず使ったりする。「なんとなく」と類似の用法を持つ言葉になりつつあるのかもしれない。

しかし、比較することは本当に大切で、自分の体験や状況を相対的に捉えることにより、必要以上の悲観や楽観を防止できる。経験上、追い込まれたときほど相対化ができなくなる。視野が狭くなり、短期的な目線でめちゃ焦るみたいな状況が生まれがちである。そんなときこそ、落ち着いて「比較的」の境地を得ることが大切である。

 

この「比較」だが、自己の経験の中で比較ができるような辛さであれば、ぶっちゃけ比較の必要もない。比較するに値しない余裕の辛さである。本当に辛い時は、自己の経験の中で比較対象がなく、比較のしようがない。そうすると相対化ができないから、ただただ辛い、辛い地獄を味わうこととなる。これを乗り越えるためには、外部の知識を得て相対化をするか、ただ耐え凌ぐしかないと感じている(全くの主観である)。外部の知識を得て相対化すると言うのは、たとえば、日米修好通商条約を締結した後に勅許をもらおうと天皇のところに行ったが絶対に許さないと一蹴されてトボトボ江戸に帰った時の堀田正睦の気持ちを考えたら今の状況なんて余裕、みたいな思考回路を持つことだ。この思考方法で結構なところまで飛躍できるのだが、いかんせん肉体的なしんどさを伴わない類推ベースの思考回路のため、身に迫る苦しみまで想起しづらい。多分この時この人も結構しんどかったろうなぁ、とは思うが、今自分の目の前にあるしんどさの方がどうしても辛いように思えてしまう。

となると、本当に辛い時は耐え凌ぐ以外に道はない。耐え凌いでなんとかしないことには、相対化の種すら生まれず、全て生身でダメージを受け続ける。予防接種みたいなもので、人生の早い段階でさっさと様々な種類の辛いを経験しておいた方が、免疫がついて末長く元気に生きられるのだろう。おそらく、この辺りの思考回路から、幼い子には旅をさせよとか、若い頃の苦労は勝手でもしろとかって、劇薬系諺が発生したとおもわわれる。めちゃわかるなぁとも思うが、そこそこ強者の論理である。社会の厳しさが滲む。

 

僕は今、明治元年から明治4年までの新政府(明治政府)がどれだけの仕事量をこなしてきたかを学び、自分の日頃の仕事のしていなさを呪っている。比較的仕事していない、のではない。全然ダメだなあと思い、また明日も働く。