徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

なんでも因果なんでも理解

この春、異動した。人事の職から一転、現場の営業部隊に鞍を替えろ、そこでマネジメントをしろ、という異動が発令されたのだった。4年半、労務屋さんとして、社内的な諸々や高名な疫病への対処など、常時歯を食いしばって働いてきた。その食いしばりが何に影響を与えたか不明だが、なんらかの力が働き、ピンボールのように弾き出された春の日。ピンボールは全く見知らぬ畑に着弾、門外漢の管理職が一匹爆誕した。

嘘でもマネジャーという立場になったため、取引先の職員など、日頃関わり合う人の数が非常に増えた。就任序盤、畑違いの僕は、なんとか皆から受け入れてもらおうと努めて気さくに話しかけ、部下やら取引先やらから聞ける限りの話を聞き、困りごとを解決できるだけじゃかじゃか解決した。その甲斐あり、たくさんのステークホルダーたちとそこそこな信頼関係が築けたように思う。門外漢、パージされなくて本当によかった。おかげで前職とは比べ物にならないほどたくさんの人と共に働き、たくさん話をしている。

かつて人事職のころ、僕は経営判断の実務調整を担っていた。多量の情報を元に、各所の利害を調整をすることが仕事だった。一方、現場では、たくさんの顧客に対してたくさんの職員が売上を上げるために働く。役割が違うもんだから、必要な情報の優先順位も変われば、与えられる情報の質も変わる。さらに、現場に行けば行くほど、経営判断の意図からの距離も遠くなる。そのギャップを埋めるのが僕の仕事なのだが、一旦棚に上げる。物理的に遠ざかることは事実だろう。

多量の情報から距離を置き、経営判断を愚直に執行する。このような立場に置かれると、多くの人はどうやら様々なことを想像するらしい。経営判断の意図を想像する。想像と日頃見聞きした事柄に因果関係を見出す。そして、理解する。この理解は事実でなくてもいい。各々が想像しやすいように想像し、思考しやすいように思考し、納得した時点で想像と思考が理解に変わるのだ。さらに、自分の想像の真偽を確かめることは多くの場合でしない。ちょっと調べればわかることでも、自分の想像から因果を辿った理解を覆すような行動はなされず、審議を超越した理解がそこかしこに発生する。

僕もこれまで、勝手に自分が理解したことをこうしたブログなどで書き続けてきた。しかし、どれだけの思考において、正しく事実を把握しようとしただろうか。ほとんどの場合で、目の前の事象と世の中の風潮を、勝手に因果で結びつけ、アナロジーを見出し、さも新発見をしたように書いた。その瞬間、僕の中で因果が正しいかなんて全く関係ない。自分の思考で辿り着いた因果に酔い、理解に溺れるのである。

「理解をすること」は人間の習性なのだなと、たくさんの人と触れ合ってみて痛感している。仕事の文脈では、この理解をハックして同じ方向に歩んでいくことがマネジメントの大きな意味なのだろう。

自己の経験から帰納法的に理解すると間違えることを理解しながら、勝手な理解で、また書く。