徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

水の前では皆平等

我が家にはたくさんの植物がある。観葉植物である。部屋の中に数十体、玄関先に寄せ植えがいくつか。妻の趣味だ。

僕も、植物の名前を覚えたり、窓辺にハンギングされている植物を見ていい部屋だなと思ったりなどしている。そして、妻が早く家を出たりしたときに、たまに世話を手伝う。

植物の様子を観察して、変化を察知して、適切な処置をするのは、至難の業だ。妻は本当に物事をよく見ているし、変化にも気がつく。そして植物に対して慈しみの気持ちを持って世話をする。日々見ていて、僕には到底できないなと、尊敬の気持ちを抱いている。

僕ができる世話は、本当に簡単な水やりである。主に寄せ植えに水をやる。ビオラシクラメンが植っているのだが、しおしおした植物たちが、朝に水をやれば帰る頃には元気になっている。わかりやすい奴らだなあと、面白く様子を見る。

 

今日も僕は寄せ植えに水をやった。

ブリキのジョウロに水を汲んで、寄せ植えにジャバジャバと水をかける。たっぷりやる。土は乾いているので、多めに水をやってもどんどん吸い込んでいく。気候も良好で、数日前の寒波が嘘のように暖かくなった。さぞ植物も喜んでいるだろう。

ひとしきり水をやって、ジョウロを片付け、喉の渇きを覚えたので、僕も水を飲んだ。同じ水道水を。

 

はたと気がついた。僕は植物と同じ水を飲んでいる。喉が渇いて、水を飲む。土が乾いて、水をやる。同じ水である。

何を今更言っているのかという話だ。人体を構成する要素のうち7割だか8割が水分というのは有名な話だし、植物が育つには水と空気と日光と養分と気温が必要なのも小学校理科で習う。常識も常識。

しかし僕は、人間も植物も、全く同じ水で生きていることを、実感していなかった。水とは理解していたが、なんとなく違う水のように感じていた。だがそうではなかった。なんら変わらない、同じ水で生きていた。

 

人間であることを少し驕っていたのかもしれない。特別な水などない。植物も動物もひいては人間も、生命として、水の前では平等なのだ。

謙虚におおらかな気持ちで生きねばならんと自省した、日曜の昼下がりであった。