冨樫先生の腰をバッキバキにぶっ壊し、尾田先生の書き込みを増やすことで多大な負担を強いて過労状態に追い込んだ張本人が…… あなたなんですよ、週刊少年ジ●ンプ編集長、あsdfghjklさんっ…!!
はっ!さすが名探偵さん、大した想像力だ!
何度言ったらわかるんですか。私にはかくかくしかじかといったれっきとしたアリバイがあるんですよ!そんな私が冨樫先生の腰を壊しさらに尾田先生までも…?できるはずがない!
状況だけを並べないで証拠を見せたらどうなんですか証拠を!
証拠ですか… 確かにあなたにはアリバイがある。しかしそれを覆す証拠があるはずなんですよ… そのポケットの中にねぇ!!
あなたが一番ご存じなんじゃないですか、あsdfgyhjklさん!!
な…!
くそ… すべてお見通しだったわけですか…そうですよわたしがやtt以下略
某薬を飲んだら小っちゃくなっちゃった名探偵やグランパコンプレックス名探偵によく見られる展開の一例である。
むしろこれ以外何があるってほどにこの展開は定番化していて、このシーンが出るとお茶の間が独特の安心感に包まれる。
このシーンを我々視聴者は探偵視点から見る。
探偵が指名した容疑者が犯人である証拠をつかむまでの探偵の動きも知っているし、何しろ主人公がへまをするはずがないから信ずるに足ることだということで違和感なくクライマックスを見ることができるのである。
けどこのシーン実はものすごい薄氷の上を歩いてたりする可能性もあるわけだ。
特にこの犯人が物的証拠を隠し持ってるパターンや犯人ないしは被害者の机とかに隠してあるパターンの追い詰め方は本当に危うい。十分に探偵の見当違いエンドが訪れることも考えられる。
名探偵諸君はたいてい犯人探しをする際には、ある程度というか極端な話ほぼほぼ犯人の狙いを定めて調査する。酷い時にはかたくなにあの人が犯人に違いないといった強いこだわりを持って捜査に臨むこともあるほどである。
おそらくここに現実と名探偵漫画の大きな齟齬があるんだろーなと思う。
就活なり、卒論なり、その後の社会なり、なんなり。
何か自分の考えをアウトプットするときには必ず証拠とか根拠に基づいたがちがちの理論体系のもとでなければならないと大人になるにつれて学んでいく。
だから就活では自己分析を分子レベルまで砕いてしろって言われるし、卒論では先行研究を腐るほど読みふけろと言われる。
そうして隙間なく証拠と根拠とで固めてこそ、初めて考えが考えとしてのスタートラインに立てる。じゃなかったら考えとして認めてもらえない。
そんな社会の現実と常識を目の当たりにするとなんだかトップダウン式で物事を考えることの難しさを知る。というかむしろ不可能なんじゃないかとも思う。
やりたいことや現したいことがあっても、そこに至るまでの思考過程が社会的に納得されるものでなければ、趣味レベルのそれにしかなりえない。
都合よく後付けの論拠がうまく組み立てられればいいけど、理想を先に掲げちゃうとその論拠にボロが出ることが多いし、理想にばっかり目が行っちゃって根拠探しを怠ることが多い。怠るつもりがなかったにしても。
だったらボトムアップ的に、もうひたすらデータやら根拠の種とにらめっこしまくって案出せばいいじゃんってことになるんだけど、大体ぱっと思いつくことは理想ばっかりなわけで。
根拠から答えを導き出したとしても本当にこれがやりたいのか…って自分の理想との差異にビビることも多い。
子供の頃から、将来の夢を盲目的に掲げてきた癖が抜けきらないんだろうか、出来ることとやれることの違いが判らないまま生きてきてしまってる気がする。
それを子供の頃からのせいにしてしまっていいものなのか、考え方が未熟と自らを律するべきなのかはわからないけれども。
みんなこういうところで躓いているんでしょ、ね、そうだよね。