年相応の成長だとか、年相応の衰えだとか。
人生のスタートと人生のフィニッシュ付近にやってくると何かと年相応という言葉を聞くようになる。 若者ないし壮年期に年相応と言う言葉はあまり聞かない。そんなに年齢的な何かを気にはしない。
年相応ってどういうこっちゃろうか。
まぁ、何歩か譲って、人生のスタートにおける年相応は理解できる。お母さんのおなかの中という限りなく個体差のない環境で皆育つのだから、ある程度足並みは揃っておかしくない。
けど、高齢者の年相応って。
人生にはバリエーションがありすぎる。個体差こそが人生だ。そんなんで足並みがそろうはずがないだろう。
趣味は音楽に合わせて首をシェイクする事です!っておじいちゃんの首が年相応の衰えをするはずがない。酷使だ。酷使無双。ぼろぼろになってる。
年相応の衰えをどう試算してるのかなと考えてみた。
きっと高齢者の全身の健康度とかを数値化して、平均をどーんとだして、それに近いとあー、年相応だね!って言い方をしているんじゃないかな。
高齢者の心理に関する調査を卒論にしたのだけれど、何しろアンケート調査だから、年相応の試算方法(予測)と同じように高齢者の生きがいやら何やらを数値化して表した。
これ、実際すごくわかりやすい。
どの数字が上がればどの数字が下がるとかの関係も分かるし、年齢差や性差もカンタンに出せる。
けど、結局数字なんかじゃ人間の本当のところを理解なんてできたもんじゃない。
70歳なのにめちゃくちゃ生きがい感が低い。数字ではここまでしか表せないけど、もしかしたら親とかがつい先日なくなったばっかりかもしれない。
数字にはバックグラウンドが全く現れないのだ。淡々と状況を伝えてくれるけど、表面上の状況しか伝えてくれない。
心理面で数値化が難しいように、肉体面や思考の面でも数値化は難しい。
世の中では、握力とかの筋力を数字で表したりするから、肉体の能力の平均と言われても納得してしまうことが多いと思う。
でも言ってしまえば肉体も心も人間のものだ。数字だけじゃ全てを伝えられない。
だから、どうも、この年相応の衰えって言葉は横暴だと思うんだ。ある種、匙を投げているようにも聞こえる。
年相応だから、大丈夫。年相応だから、仕方ない。
人間の心理として、個体差がまとまればまとまるほど年相応を気にして、ちょっとばらけてくると気にする事をやめ、完全にばらけきるとまた気にしだす傾向がある気がする。
例えば大勢で待ち合わせをするとき。
確実に定刻に集まる集団で待ち合わせるとなると、これは遅れられない。
5分くらいの前後が許される集団だとなぜか安心して少し遅刻できる。
ばらっばらに集まるやつらと待ち合わせるときには逆にバランスとって定刻に着こうとする人が増える。
こんな傾向あるんじゃないの。いや、実感だけど。何の根拠もないよ。
そんな心理が働くと仮定したら、年少のころと高齢のころの年相応が気になる症候群にも説明が付く。
とにかく、年相応といわれると、みなが安心する。皆で育って、皆で衰えている、安心感を得られる。
年相応って、そういうかりそめの安心を与えているにしか過ぎないんじゃないの。
医療とかさ、医学とか、たいそうな知識は一粒も持ち合わせていないからえらそうな事何もいえないけど、人間の悩みや病気、不調に対しては、数で処理して欲しくない。
一個体として扱って欲しい。
引き目で皆落ちて行ってるから大丈夫じゃなくて、一個体として落ちて行ってるからダメだって言って欲しい。
年相応の進学をした人間の、年相応へのレジスタンスでした。