徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

多趣味って言いたいから

両手両足に遥かに余るほどに世に溢れる趣味。毛穴の数ほどあるのではないかとも思われる。自分がこれ趣味です、って宣言すれば何でも趣味だ。掃除や洗濯とか生活必需行動も趣味になるし、鏡の前で変なポーズをとるみたいな何一つ生産性のない行為でも、自分が趣味として楽しみまくってんなら、立派な趣味である。

趣味は絶妙なベールとなる。趣味と言ってしまえば技術とか、造詣の深さとかを全く求められないのだ。趣味っていうくらいだから真剣に取り組めよ!なんてこと言われない。だって趣味だから。楽しんでるだけだから。自分の欲求に任せるまま、趣味が興じまくったらスーパーテクニックを身に着けてたようなことはあっても、つらいと思ってしまう練習の真っただ中では、その行為を趣味と感じ得ないはずだ。ちっちゃいころの習い事がそのまま趣味になるパターンが多いのは、辛い練習を乗り越えて、テクニックをそのままに義務から解放されるから。初めてそこで本当の楽しさを知る人が多いからだろう。

 

でも世間的に、趣味と公言するからには、ある程度の詳しさを求められることがあるのではないか。鏡の前で変なポーズみたいな斜陽産業よろしく斜陽趣味の場合はそうでもなくとも、音楽鑑賞とか、誰にでも経験のあることを趣味と公言する場合には強く求められる節がある。

最たるものが読書だと思う。

凄く身近にある本だからこそ、誰にでも読める活字だからこそ、趣味と呼ぶには相当量の読書が必要な気がしてしまう。一番好きな作家は?ここ最近で一番よかった本は?どれくらいの長さの本読むの?想定問答に答えられるだけの知識を身に着けなければならない。

 

これってすごくきついよね。無趣味人間ってよく聞くけど、実は好きなことがあっても趣味に課される期待に負けて無趣味を公言している人も多いんじゃないか。

もっと趣味のハードルを下げた方がいい。五曲くらい歌詞見ないで歌える曲があれば音楽聞くのが趣味って言っていいと思うし、3人くらい好きなサッカー選手がいればサッカー見るのが趣味って言っていいと思う。本だってそう。一冊でも好きな本があれば読書趣味でいいじゃん。

本当にどはまりしている人に対する引け目を感じることもあるだろう。けど彼らはきっと、ソフトに趣味している人のことを許容してくれるだけのキャパシティーを持っている。教えてあげたいくらいの気持ちを持っている。知らない人にはソフトなりの知識で教えてあげればいい。

趣味と公言することによるデメリットなんて本当に少ないのだ。だったらどんどん趣味って言っちゃえばいいと思う。

多趣味を手繰り寄せてしまおうじゃないの。