徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

モップか箒かという話

ずっとモップが好きだった。箒は掃除できている気がしない。ゴミを掃いているのだ。むしろ散らかしているようにしか思えない。小学校の頃の掃除当番から、モップが好きで、モップばっかり担当していた。

掃除はゴミを集めて捨てる行為だ。掃いて散らかす行為ではない。掃いて集めたところで取り逃がしが必ずあるわけであり、その散らかりをまた拾いにいく労力が必要になってくるわけである。
だったら最初からモップで集めちゃえばいいじゃない。箒→ちりとり→箒→ちりとり→モップって、そんなプロセス踏まないでもいいじゃない。小生意気にも小さな頃からレジスタンススピリッツ丸出しで、掃除に立ち向かっていた。
考えてもみよう、ダイソンが吸い込み続けているあの掃除機だって、モップの進化系だ。吸い込み、集め、捨てる。モップそのものだ。ダスキンなんてそのまんまモップである。
もはや、文明の進化とともに箒が淘汰されている。
確かに、高圧洗浄機のように、スーパー水圧やハイパー空気圧でチリや汚れを吹っ飛ばす掃除用具は存在する。箒の進化のようにも見える。だが、忘れちゃならないのは、箒は集めて捨てることに重点を置いているということだ。上記のマシーンたちは、散らかしきってわからなくしてしまおう作戦のもとに成立している。箒とは似ても似つかない代物なのだ。もはや果たして洗浄と言えるのか疑問だ。まだ箒の方が掃除を放棄していない。掃除の法規に則っている感がある。
まぁいいとしてだ。
現状が続くとして、将来箒の姿はあるだろうか。なくなることはないかもしれない。むしろないだろう。ただ、誰かが気がつくかもしれない。学校の掃除道具の箒が全部モップになっても問題ないんじゃね?
室内清掃時に使用する箒の、確固とした存在理由を知りたい。改めて、そう思う。