徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ブログ書いているからわかったこと

時間があったので、今まで書いたブログをざざーっと振り返ってみた。

で、気がついた。

ものすごい量を書いている。ざざーっと振り返っても振り返りきれない量の文章を書いている。

自分で書いた文章、自分のことだからざざーっとでも振り返られるけども、これは自分以外の誰かが読もうなんて気にはさらさらなれない分量だろう。

なにしろやや1年まるまる分の記事である。365記事。だいたい1日1000字位は書くようにしているので、ざっと365,000文字。本一冊ってどれ位の文字数なんですか。これ、本にになりますか。

反復練習こそが力をつけるのであれば、そこそこの文章力がついていていいだろう。1万時間理論が本当なら、後この活動を10年位続けたらプロフェッショナル文章書きになれるだろう。文章書くことをそんなにまで頑張る気はないのだけれどね。


振り返るのにも力を要する分量のブログ。振り返るのも野暮ったいほどの毎日。文章にしてみてわかるが、1年はあっという間よーっていうけど全然そんなことはない。1年は長い。1日も長い。

振り返る努力や刻み付ける努力をしている人はわかるだろう。本当に長い。1年は。

ドラマチックな、特別な日だけを振り返ろうとするから早いのだ。人生が進むに連れてターニングポイントなんて少なくなる。

日々のなんでもないことに気を配って、心に留めるようにすると、これほどまでに人生を振り返るのは大変なのかと感じる。

1日を大切に生きなくても、留めるだけで勝手に大切なそれになってくるのだ。不思議なもので。


どうせなら、このなんでもない日々に意味を持たせてやりたいなぁと思う。どうすれば自分さえ読む気の失せる雑記に意味が生まれるか。

ひとえに、自分の価値を上げるしかないわけです。

こいつなに考えてなるか知りたいって思われることができれば、ブログに意味ができる。文章に価値が生まれる。

ただ、知りたいと思われるってものすごくハードルが高い。運動不足の今じゃとても飛び越えられない。ちょっとやそっとの生き様じゃ、知りたいなんて思われない。なにしろ情報社会である。大洪水大氾濫を起こす情報の中、自分にフォーカスしてもらうなんて、宝くじでそこそこの金額を当てるよりも難しいだろう。

一つ宝くじと違うのは、自分の力でほんの少しだけどうにかなることだ。頑張り方を見極めて、頑張る場所を見極めて、勝算のある舞台で全力の奔走を見せれば、多少なりとも名誉と成功の宝くじ当選をを引き寄せられる。


どうせ一度の人生なら、どうせ一度の長い人生をこれからも書き留めて行くなら、後付けでも価値が出るようにがんばってやりたい。

なにしろつらつら綴った日々の20倍の人生が自分の血となり肉となっているのだ。

みんなそうなのだろう。

無為に生きているようで、そうではない。嘆くこともない。意味はあるし、意味もできる。


自分のブログを見返すと元気が出るとわかった日曜日。少なくともあと一週間は頑張れる。気がする。