徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

表現しないと生きていけない

高校の頃バンドを組んでいた友人二人と、まぁ色々とあってぼちぼち会って喋った。我が家に一泊して帰って行った。一人はその足でスペインに1年間の留学に行った。彼は今マドリードにいるらしい。スケールが大きい。大都会東京にある六畳一間の隅でキーボードを叩いているのとどっちがどうだとは言えないのだろうが。

三者三様、各々の形で表現して生きている三人だった。自分はまぁギターがあり、文章があり。文章を科学して、言葉で表そうとするやつがいて、写真と文章でなんとかしようとしているやつもいる。全員一人っ子で、何かを自分で作り上げないことには楽しさを感じられない育ち方をしたのかもしれない。どういった形であれ、自らの内面を他の物に代弁させることでバランスを保っている。

体育会系と文化系の二大勢力に世はわかれている。日本だけかもしれない、マドリードは違うかもしれないが。体育にしろ文化にしろ、どちらも趣味とすればもやもやを解決しうるツールである。汗を流してさっぱりする。音楽を聞いてリラックスする。二者とも不自然なく納得できる文脈である。

今は文化系にコミットしている身だから、文化に肩入れして考えてしまうのだが、カタルシスの効果とすると、スポーツでの自己表現よりも芸術に類する自己表現の方が効果が高いのではないかと思う。

全力で走っていたころを思う。確かに走っている最中と走り終わったあとは、悩みなんて考える隙間がないほど苦しかった。毒を以て毒を制す感じがある。全力を積み傘なた後の達成感を思えば、多少の自己評価の落ち込みなんて簡単に覆ったりもする。その点では文化よりも優れているか。

しかし、スポーツは問題を見つめない。忘れたり、焦点をずらしたりして問題の疑似解決を図る。

芸術で自分を表現して自らを納得させようと思うと、自分の内面と全力で向き合うことになる。この気持ちはなんだろう。谷川俊太郎よろしく、具体的解決を望めない点ではスポーツと同じであれ、自分の気持ちを料理して製作する作業は、問題を直視したうえで消化しよう、昇華しようと努める作業だ。作品ができた時、まして作品が評価された時の気持ちはスポーツのそれを上回る。

 

何しろ久しく走っていない。ちょっとでもまた運動をすれば運動すごい!スポーツやっぱりいい!ってなるのかもしれないけど、例のごとく東京砂漠の個人的オアシスに体育座りしているうちは文化に寄りかかり続けることになりそうだ。

2人の友人とはしばらく会わずとも、なんとなく言葉端とか写真の切れ端とかで元気度合いを見ることができる。まぁ、お互い頑張りましょう。