杞憂に終わる。いい言葉だ。何の問題もない。丈夫な石橋を叩いて、なんでもない。恐る恐る歩いて、恐ろしいことはなにもない。
当方心配性だ。何でもかんでも気になる。気になり出したら止まらない。自分の力じゃどうしようもないことすらも気になる。やっちゃったことは仕方ないとか、今更悩んでもどうしようもないとか、もっともな意見を聞きながら、やはり心配は心配で、大爆睡ながら眠れぬ夜を過ごす。
恐ろしいのは、無意識で行っている作業だ。習慣として行っているからこそ、本当に達成できているのか不安になる。
なにって、自分がさっきタイムカード切ったか不安なのだ。いま。無性に。若干の残業を終えての、家路。早く家に帰りたい。なんなら今日飲み会だからさ、早く飲み物食べ物にありつきたい。そんなふしだらな思いに突き動かされて、タイムカードを切らずに帰ってはいないか。
記憶をたどる。エレベーターを降り、守衛さんに荷物を見せたまでは覚えているが、タイムカードを切った記憶がない。どうだったろうか。無意識か。無意識か?
確かに、昨日おとといと切った記憶があるかと言われると、いまいちピンとこない。だから例によって何事もなく切れている可能性もある。おおいにある。
だが、もしもということも考えられる。もしも切れていなかったら。大残業をしていることになり、これはおかしいと上司に呼ばれ、叱られ、始末書を書き、定時帰りで処理される。若干の残業代がでない上、メンタルがえぐられる。
あぁ、どうしよう。
悩みながら、もんもんとしながら、身体は黙って会社から離れていく。電車なんて言うハイスピード乗り物に揺られて。もう帰れない。もう戻れない。腹を括るしかない。間違いなく切ったと、言い聞かせるしかない。
こう、文書を書きながらも不安は膨れ上がる。一瞬忘れ、また思い出す。忘却と想起の往来の中、不安は育っていく。
こんな性格をなんとかしたい。どうせ杞憂に終わるのならば、どうせやんごとないのならば。
明日になればわかるだろう。明日になれば。明日になれば。