徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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意識高い系は人類の進化形である

昨今、ちょっと真面目に生きようとすると、すかさず飛んでくる言葉。「意識高いねぇ!」

意識が高いというのは、ほんの少し前まで、向上心があると訳せていたはずだった。しばらく締切まで余裕ある提出物をささーっと仕上げたり、プラスアルファの勉強をしたり。自己投資、自己犠牲による向上を求める気持ち。これらが意識が高いと言われていたはずだった。

だがいま言われる意識高い系は、違う。どんな姿、どんな意味だろう。テンプレート的な意識高い系のありようを考えてみる。スタバに類するカフェで、マックブックに類するPCを開き、フェイスブックに類するSNSにその様を投稿する傾向に類する人。これを、意識高い系と俗に言っていると思う。僕の独断と偏見による意識高い系の姿だが、おそらく現代人の共通認識にほど近い姿であろう。

意識高い系は、ちょっとした嘲笑の的になりやすい。

いや、カフェに行ってまでPCすることないでしょ。家でやろうよ。オフィスでやろうよ。つーかそもそもSNSにあげることないでしょ。何がしたいの。見せびらかしたいの。ただそれ自分に浸っているだけでしょ。

まぁこんなところだろう。嘲笑の訳は。同意しないわけじゃない。わざわざSNSに投稿するって行動に対して、僕もあまり理解を示せない。

なんでこんなにも意識高い系に対してちょっと違うんじゃないか感を抱いてしまうのか。

価値観の違いだろう。「カフェ=時間つぶしの場所・人と話す場所・飲食する場所」というステレオタイプとなりつつある考え方がやはり根強いため、ニュータイプカフェユーザーの意識高い系が幅寄せを食らっている。

また、自意識と承認欲求の肥大化に対する嫌悪感もあろう。「俺が俺が」があまり美しく思われない文化圏に生まれ育った我々が、いつでも誰でも主張できる社会に対する違和感。その社会に順応して止まない人々に対する嫌悪感。これも一つの要因に思える。

現状、モノが猛烈に溢れている。お金さえあればなんでもできるし、ぶっちゃけ、そこまでお金なくても相当に文化的な生活が営める。とにかく安い良品が出回っている。

使い古された表現だが、もうモノを買って、モノで満足する時代は終わったのだ。すごいパソコンだけで、美味しいコーヒーだけで、満足を得られる時代は終わった。これからは、「どこで何をして満足し、どう人に伝えられるか。」というワンパッケージで考えていかねばならない。じゃないと、満足できない。そうなってきている。

つまり意識高い系は、現代の消費の鏡と言える。モノと場所と宣伝を組み合わせた、新しい消費者なわけだ。違和感を感じている僕たちの方が、よほど遅れていると考えることもできる。

人間の進化の上で、毛は淘汰されゆく存在である。体毛が薄くなる歴史が、進化の歴史だ。つまり、頭髪が薄くなることも、進化である。人類の先端に、禿はいる。しかし、禿げは嫌だ。禿げたくない。という世論。最先端は、やはり敬遠されるものだ。

意識高い系も、淘汰されゆく僕ら旧人類的消費の上にある。いずれ、意識高い存在が嘲笑からは抜けだした存在になって行くと信じている。

この記事は、主にお部屋で麦茶を飲みながら書かれている。

まだ禿げてはおらず、意識も高くない。人類の後端近くから、先端を考えてみた。