徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

絶対に地震が来るのに、どうして僕たちは東京で暮らすのでしょうか

従姉妹がドイツに嫁いでいるため、僕にはドイツ人の義理の従兄弟がいる。この間うちの愛すべきばあちゃんが天からの招集についに応じてしまったこともあり、従姉妹と義理の従兄弟が2人で日本に来た。で、昨日会ってきた。

単語の羅列とmaybeとyou know?の連発という典型的初心者英語でなんとかコミュニケーションをはかり、恐らくお互いの思いの原価率くらいは伝えあえたのではないかと思う。

日本とドイツの仕事の違い、通勤の違い。ドイツは内縁の夫婦が多いだとか、インターナショナルトリビアを沢山得た。

で、彼が唐突に僕に尋ねた。

 

 

地震怖くないの?

東京は便利で綺麗だけど、地震があるから住みたくはないと。2週間東京にいたけど、地震こなくて安心したらしい。

 

 

東日本大震災の時も、過去に津波が来たところを先人が教えてくれていたのに、それを堂々と無視したからああいう大惨事が起きたという話は散々された。原発にこだわった話では無しに、長いスパンで見た人災だったと。東京の過去にも関東大震災がある。しかし、ものの見事に同じ土地で東京はパワーアップして復活した。サイヤ人顔負けのタフネスだ。

また、阪神大震災を機に耐震基準が変わって、相当頑丈な作りになったとも聞いている。ちょっとやそっとの震度7じゃ崩れない建物が今は主流だと。

 

自分が何年か住んでいることもあり、1000万人の人間が暮らしているなんとなくの安心感もあり、地震に対しては平和ボケと傍観者効果に似た感覚を覚えてしまっている。自分は大丈夫ってありがちな死亡フラグが立っている。

海を隔てた地震のない国からすると、大震災のリスクを背負って1000万人が暮らす日本は相当に不可思議に見えるらしい。危険な国、危険な国民だと。

 

多分、地震は今起こってもおかしくない。いつ起こってもおかしくない。なぜそうまでして東京に住むのか。それは東京には情報があり、人がいるからだ。おそらくは10万人規模で犠牲者とけが人が出るであろう災害を目の前にしても、1000万人という分母が全く根拠のない安心感を生み出している。怪我をしたり死んだりするのは、都民のたった1パーセントにすぎないと。

建物を頑丈にするとか、避難袋と避難場所を意識するとかってのは、自然への抵抗であり、目には目を歯には歯をである。自然の大鉈を前に一寸法師よろしく針で戦っているようなものだろう。賢くない。人間は賢くなったがゆえに全く賢くない選択をしようとしているのではないだろうか。彼の話を聞きながら東京の危うさ、災害に対する危うさをひしひしと感じた。

官公庁が京都に動くやら動かないやら。東京一極集中型の社会はもしかしたら近い将来見直されるのかもしれない。機密文書の輸送問題等、超えるべきハードルはたくさんあるのだろうが、東京にじっとしているのが何よりのリスクだし、超えようもないハードルが突然到来する危機になりかねない。

お金はお金のあるところに集まるように、人やサービスもそれらがあるところに集約されていく。ちんけな我々一般市民がフラッシュモブの如く移住しても、別に大した動きにはならない。高々モブでしかない。行政やら企業やらが、地方に商機を都会にリスクを見出したら、一極集中は比較的さらさらっと解決されるのかもしれない。何しろ世界のトヨタは東京にないのだ。

 

 

地下鉄に乗りながら、今地震起きたら死ぬのだろうかと考える。死にたくないなぁと思う。地震のない国へ、地震のない場所へと逃げて、たどり着いたベルギーでテロにあったりする可能性だってある。

 

最後に彼は、

北極か南極しか安全な場所なんてないねー

と言っていた。

全くその通りだと思った。