徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

数学とフィクション

一般項。

僕は数列が好きだった。数学が苦手で消去法的に文系を選択をするという、ありがち極まりない文系学生を生きたが、数学の中で一二を争うフェイバリット単元が数列だった。苦手は嫌いにつながりやすいものであるために、数学の参考書を開く回数は極端に少なかった。だが数列だけは好きだった。好きは得意につながりやすいものであるために、数列のみは旧帝大の二次試験問題をバスバス解いていた。楽しかった。

一般項。

数列の要となる公式のようなものだ。一般項は変数(多分整数)nを含む式で表せて、nに数を代入することにより数列を構成する数字、数列で言うところの項を求められると。あらゆる項を代表する一般的な項だから、一般項。

授業を受けながら、問題を解きながら、一般項を求めることに躍起になりながら、一般項って結局のところなんなのだろうかと考えたのを覚えている。得意だったから考える余裕があったのだろう。数の集団としての数列は確かに存在するのに、その根源であるはずの一般項は空を掴むような存在に感じられた。

言ってしまえば数学は全部フィクションなのだ。そもそも、数字がフィクションだ。ひとつ、ふたつ、、、は事象である。数字に存在はない。幼い頃から刷り込まれてきたから数字は実在しているように思えるが、そうではないのだ。xやyという変数が出てくると、いよいよフィクションにエンジンがかかってくる。三角関数に代表される諸関数、ベクトルなどが出てくると、なにひとつリアリティを持ってものを考えられなくなる。

今でもわけのわからないまま回る世界を少しでも解き明かそうとしてきた人間の歴史。その手段としての補助線が数学や物理や化学なのだ。事象としてしか存在しないものを懸命に観念に落としこんで、普遍的な体系を作り上げた先人たちの産物が、それなのだ。


どうやらこの世にありえないものしか、この世を現せないらしい。とすると、映画や小説さえも、何か特別な意味があるのではないかと考えてしまう。そういった心持ちで金曜ロードショーを見る。この物語こそ、人間関係の一般項なのかもしれない。