徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

コミュニケーション力が欲しいなら会話の上での取っ手を生やすべきだと思う

無作為に50人くらい人を集めたとしたら、きっと20番目くらいにそこそこに続いている趣味をもっていると思う。どの程度の愛と時間を注いだものを趣味というかはわからないが、おそらく趣味と言われる類の物事をそこそこに多く持ち合わせている。例えば、音楽を聴くのが好きである。親族とのカラオケでみんなに喜んでもらいたくて、縦横無尽、和洋を縦断した曲を覚えた。興じて、ピアノとギターが弾けだした。曲なんかも作ってみてみた。ライブハウスで1人、弾き語った冬もあった。そのまた昔は囲碁に熱を入れていた。市内の大会で優勝した。我が実家で燦然と輝く唯一のトロフィーは囲碁のものだ。かと思えば、キリスト教になんとなく触れていた。中1の夏休み、持て余した時間で新約聖書を読破した。血となり肉となったはずの教訓は雪に埋もれ、行方知れずになってしまった。その頃から走り出して、数年後にはほんのちょっとした出世を遂げ、ラジオに出演も果たして有頂天になる。そして希望と夢に心を躍らせた後の陸上生活で盛大な挫折を知る。


概して、日常生活で人生の履歴書を語る人間は胡散臭い。主張のアクが強くて困ってしまう。別に聞いてないですからっ!突っぱねてしまいたくなる。ともすればいやらしくも聞こえてしまうこの類の自分語りだが、語れるものは、ないよりあった方がいい。大は小を兼ねるし、能ある鷹は爪を隠せる。

どう生きているか、なにをして生活しているか。会話においてこれらは取っ手の役割を果たす。「ここ、持ってください」という会話の上での出っ張りである。初対面はもちろん、僕たちはおしゃべりをする中でお互いの取っ手を探し、掴む。二者間で同じ形の取っ手があれば、掴み合う。共通の話題である。興味深い人には、面白い形の取っ手がある。掴みたくなる形をしている。初めましてで出身の話をするのは最も代表的で持ちやすい形の取っ手だからだ。旧知の仲で不意に持ちやすい取っ手に出くわすと、意外な一面として認識する。

趣味も取っ手になる。きっと取っ手としてはメジャーな方だ。メジャーなくせして、無限な形がある。出身なんてたかだか47の都道府県でざっくり取っ手の形が分かれるくらいだが、趣味はそれはそれは多様だ。で、僕らは極めて変な形の取っ手同士を掴みあった時にものすごいシンパシーを感じて共鳴し合う。黒曜石の集積家同士がたまたま居酒屋の隣同士とかになった日には大親友になること請け合いだろう。そういうことである。

広く趣味を持つことや趣味を突き詰めることは、取っ手を増やすことと変な形の取っ手を作ることと同義だ。いわゆるコミュ力なる力があるのであれば、また、それを鍛えることができるとしたら、趣味なる取っ手を増やすことは何よりのトレーニングになるだろう。心から愛を捧げたアニメが同じだった時のあの目の輝き。好きなバンドが一緒で同じ箱の中で同じ汗をかいたことがわかった時のあの共鳴。小手先の会話術だとか雑談力なんかじゃ全く醸成できないコミュニケーションが図れる。


こうしてブログを書いていることも、ちょっと変わった形の取っ手を作成していることになるのだが、現実の世界で同じ様な取っ手を持った方とばったり出会ったことはまだない。あまり効果ないかもしれん。