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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ

「深淵を覗き込むとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」とは、哲人ニーチェの言葉である。ミイラ取りがミイラになる危険性を説いた御言葉らしい。Yahoo知恵袋にそんなようなことが書いてあった。

視力を有効数字で表した方が簡潔に表現できるほどに目が悪い僕は、メガネがなければ深淵はもちろん日中の世界も全く見えない。不便極まりない。夜景がものすごくきれいだったり、信号機がイルミネーションに見えたり、幻想的な風景を楽しむにはもってこいだったりするが、詳細は不明の一途。ぼんやりライトが果たして信号なのかテレクラなのかLEDなのかの判断ができない。

ある種、深淵を全く覗きようのない視力である。逆手に取ると、深淵から覗かれることのない存在なのだ。僕は。

意味合いは変わってくるが、見なければ見られている気にならない。深淵…の解釈をそうとることもできるだろう。深淵を覗きようのない僕は、温泉とかで厚顔無恥な振る舞いができる。なにせ何も見えていないのだ。相手からも見られている気がしない。肌色の何某がうろうろしているようにしか見えない。人類みな兄弟である。

人見知りが酷いとか、あがり症で辛いとか、恥ずかしいが募り募った系悩みを抱えている人は多くいるだろう。対人での不安やストレスに潰されそうな場合、たいてい自分が見られている意識が強いのだと思う。それはすなわち相手を見てしまっているから以外の何物でもない。

見なければいいのだ。想像の破片が介入する余地がないほどの見えない世界に逃げ込んでしまえばいいのだ。視力が悪くて良かったと思うのがその点である。悪いものをいい方に矯正はできるが、いい方を悪い方に矯正することはほぼない。つまり、生来の高視力人間が知らない世界を我々は知っていることとなる。メリットですらあると感じる。

見えてしまうから見られてしまう彼らより、見えないからこそ見られていない気がする僕らは、後の先を取っているとも言えるのではないかと。本気でそう思う。


電車の中で眼鏡を外してみる。目が合っているのか否かわからない肌色が一列にずらっと並ぶ。彼女は僕のことを見ているのだろうか。答え合わせをしようとメガネをかけてみたら、彼女は彼で、彼はスマホをいじっていた。

そんなもんらしい。