徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

新宿御苑前の餃子屋、福包に行った

肉と野菜と炭水化物を効率よく摂るための料理の急先鋒といえば、やはり餃子なのだろう。主食なのか、おかずなのか、彼は何とも言えない立ち位置にいる。主となるには心もとないが、脇に入るには少し主張が強すぎる。油と炭水化物。なんとも不摂生極まりない組み合わせを、中の具で上手く中和した感じである。僕たち人間はごまかされる。なんとなく健康にいい気になる。実際のところはどうなのか知らない。

新宿のこの店に行った。

 

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並んでいた。入るまで数十分待つ。日本人精神を丸出しにして、お行儀よく待つ。待つ。待つ。待つ。空腹と待機時間の漸近線が今にも接地しそうな頃に店内に案内されたのは店の策略か。果たして、餃子を食べる単位はなんだろう。ご飯を食べるときに粒でカウントする人はいまい。大体が茶碗で計算する。何膳。これが基本単位だ。餃子はどうだ。あいつを個数計算するか、皿数計算するか、非常に意見が分かれるところである。皿数計算のところは、比較的回転の良い餃子店にありがちであろう。量を食べてね!そんな意図が見受けられる。今回の福包は個数計算だった。40個入り大入り餃子がウリらしい。個である。個。個数計算の店は、餃子が非常に強い。さらさら食べるのではない。一個一個にじっくり向き合い、食す。わんこそばが皿数計算なら、せいろが個数計算だ。

一個がとてもしっかりしている。の割に、箸が進む。これは名店のなせる業か。ニンニクとニラのパンチを全身全舌で受け止め、抱きしめている間に次の餃子に箸が行く。何とも贅沢なエンドレスレイン。

何が味を左右するのか。たかだか野菜と肉と油と生地だ。それ以上でも以下でもない。しかしどうしようもなく味が違う。餃子店ごとに味があり、特徴がある。目と耳と鼻と口。同じ構成要素にもかかわらず同じ顔が二つとない人間と同じだろうか。ほとんど同じDNAだというのに、好みが分かれる不思議は、餃子も同じだろうか。

僕は福包が好きです。好きでした。