徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

生きた証すなわち消費である

端的に論旨を述べよう。

カロリーを消費して生きている僕達は常に消費をしている。むしろ消費をしなければ生きていけない。消費をするために生き、生きるために消費をしている。酸素を使い、脂肪を燃やす消費もあれば、お金を使い、私腹を肥やす消費もある。そう。消費と生きるの関係が切っても切れない関係なのであれば、金銭の消費も間違いなく生命を強くする。

弁当を持って会社に行き、自宅で晩飯を食うとなると、たまに財布を開かない日があるが、なんとも生きた心地がしないものだ。まだ、仕事の日はいい。休日に家から出ないでただただぼんやり過ごし、生きるための消費だけして日を終えるとなると、酷く生活の質を低下させている感覚を覚える。どれもこれも消費が足りないのだ。消費したくて仕方ないのだ。

試しに気持ちが沈んでいるときに、意味もなく歩いてみるといい。走ってみてもいい。基礎代謝以上の消費は清々しさをもたらす。消費が足りないのだ。日本国民よ。だからどうしても辛い時や、どうしても悲しい時、命のともしびが心もとなくなってしまうのだ。力いっぱい、めいっぱいの消費をしてみると、不思議と元気になってくるものだ。

 

さて、身勝手極まりない消費哲学に基づいた数々の消費が集まり、給料日まであと十日を残して逆算したくない残高状況になっている。ハードルをやっていたころ、十台目のハードルに届かない感じに、至極類似した精神状況である。

天は僕に生きるなと言っているのだろうか。否、じっと見つめた手のひらが自らの首を締めているだけに過ぎなかった。