徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

君の名は。 ~僕も誰かを探したい~

話題作をやっとこさ観た。

散々ネタバレ解説評論考察の類が世に出回って、なんとなくはストーリーの流れを知った上での視聴だったが、なんのその、イノセントなこの感性を満足させるのには十分すぎる映画であった。映像は綺麗、お話は丁寧、出会いは感動、別れは切なく、終わりは美しい。お手本のような良作なのではなかろうか。

 

僕が幼稚園生の頃、ポケットモンスターの初代バージョンが発売され、同時にアニメがテレビ東京で放映され始めた。テレビ東京がど田舎過ぎて映らなかった我が家では、本州の知り合いからビデオを送ってもらうなんていう荒業を使って、たまにではあるが、ポケモンを視聴していた。アニメ・ポケットモンスターの主人公は、サトシという10歳の少年だ。ポケモンマスターになるためには、10歳になるとポケモンを一匹連れて旅に出なければならない決まりがあるのだという。サトシのお供が、かの有名なピカチュウだったのだが。

当時、ポケモンを観て、この世界のどこかにポケモンみたいな動物がいるのではないかと胸をときめかせた。僕もポケモンマスターになれると思っていた。だから、10歳になったら旅に出るのだと、心に決めていた。若干4歳の頃である。もちろん、10歳当時の僕は元気な小学4年生で、公園で遊び、お家でご飯を食べるいい子だった。旅なんてもってのほか。

 

君の名は。を観て、当時の感情を思い出した。素直な感動と素直な興奮のせいで、見事なまでに作品に自分を投影させてしまうのだ。

この作品のダブル主人公、瀧と三葉は、ずっと誰かを探している感覚を抱き続けていた。来る日も来る日も、記憶の片隅にいるような誰かを探している気がしていたのだった。つまるところ、それはお互い入れ替わっては戻り、記憶を失い…と延々記憶と存在のいたちごっこをしていたからなのだが、作品を見ると二人の逢瀬までのいざこざが偏にいじらしく、魅力的だった。

僕もあんな風に人を探してみたい。誰かを、記憶のどこかにいる誰かを待ち続けたい。いや、なんなら誰かを待っているに違いない。電車の窓、駅の雑踏の中、不意に肩がぶつかった誰かは、巡り合うべくして巡り合っている誰かなのだ。きっと。

そんな妄想がむくむくともたげる。止まらない。明日からも仕事が忙しいというのに。誰かを待っている暇なんてないというのに。