「すみません、今日はちょっと。。。」
。。。
比較的近しい間柄の人から誘われ、断りにくいが、どうしても断らなきゃいけない時の文面でよく用いられる表現である。文末、顔文字にも満たない表現として使用される「。。。」バツの悪さをこれほどまでに上手く表した表現はない。
「すみません、今日はちょっと」
だと全く持って愛想がない。なんならちょっと敵意が見え隠れしている。
「すみません、今日はちょっとm(__)m」
これでは行けないことに対する罪悪感も呵責も何も感じられない。「行けたら行くわー」を使いこなす輩は大概顔文字ブイブイのこういうノリで断りを入れてくる。昨今ではスタンプが顔文字に成り代わっている。
上手い表現だとは思う。上手い表現に違いはないのだが、「。。。」だとか、「…」をあまり使用したくない気持ちがある。顔文字やスタンプも同様だ。
顔文字は文字の世界にヴィジュアルを持ってきた。それはサッカーで突然ボールを持って走り出してしまうような、異次元の所業である。どう違うと言われると窮するのだが、文字の理解の仕方と絵の理解の仕方は根本的に異なる。イメージとしては、文字が6-4-3のダブルプレーだとすると、絵はファーストライナーで飛び出したランナーをタッチしてのダブルプレーである。絵の方が理解への手続きが少ない。視覚のフルスイングだ。百聞は一見にしかずと言うほど、一見の力は凄い。「。。。」も「…」も「m(__)m」も、視覚に訴えかけてくる。理解はたやすい。しかし、往々にして美しいプレーが生まれるのは6-4-3のダブルプレーだったりする。味気ない2アウトよりも、6-4-3に美を見る。
無理やりな持論の元、日常のメールやラインにおいても頑なに日本語のみの文章を構成している。
「申し訳ございません、参加したい気持ちは山よりも大きく谷よりも深いのですが、本日はどうしてものっぴけない事情がございまして、断腸極まりないのですが、お断りさせていただければと思います。」
これは割と「すみません、今日はちょっとm(__)m」寄りに近い文面である。おふざけのこころが見え隠れしているのがよくわかろう。要らない自分ルールのおかげで僕のメッセージはフランクになればなるほど焼き海苔のような形になる。
こんな文章しか書けない割にフリック入力ばかりが上手くなる。悲しい哉。