徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

イタリアの未来派、ウンベルト・ボッチョーニの作品を解説しない

ウンベルト・ボッチョーニをご存じだろうか。

20世紀初頭に活躍したイタリアの彫刻家であり、画家である。未来派と言われる、暴力と破壊を賛美する過激な前衛芸術家集団の一翼を担っていた。

 

恐らく知らない人が大半だろう。ウンベルト・ボッチョーニと聞いて、あぁ!あの未来派の!とはならないだろう。しかし僕は中学生のころからウンベルト・ボッチョーニを知っていた。

何故か。

美術の成績は万年3だった。学生時代は奥行きを全く感じさせない絵を描く男として有名だった。描くも作るも苦手な人間の美術の楽しみ方と言えば、資料集の読み込みしかない。わかったようなわかってないような絵と彫刻が並んだ分厚い資料集を読み、芸術を知識として吸い取る。美ではない。知だ。

そうして、中学二年生の夏。僕はウンベルト・ボッチョーニとであった。

一目ぼれだった。もちろん、作品にではない。名前にである。

かねてより言葉の響きにフェチズムを抱いている。語呂がいい言葉が大好きである。ウンベルト・ボッチョーニはそんな僕の心に深く深く刺さった。

いかがであろう、この力強く勇ましい名前は。いくつかポイントがあるように思う。

①ウンベルト

②ウンとボッチョの親和性

③チョーニのお坊ちゃん感

まず、ウンベルトについてである。これはフンボルトペンギンのそれと同じ原理なのだが、我が国民は「ウン」や「フン」にほくそ笑みがちになる。3歳児であればこれだけで2時間笑う。そこに畳み掛ける「ベルト」や「ボルト」。濁点である。歌舞伎の外郎売をご存じだろうか。歌舞伎十八番の作品だ。その作中クライマックスに、「武具馬具武具馬具三武具馬具、合わせて武具馬具六武具馬具」という口上がある。お分かりのように、濁点のオンパレード。江戸の世から僕らは濁点に現を抜かしてきているのだ。つまり、サブリミナル効果と歴史に裏付けられた語感が掛け合わされた理想の響きこそがウンベルトであると言っても過言ではない。

さらに、「ウン」と「ボッチョ」は物凄く相性がいい。左様、厠関係のそれだ。深くは語らない。語らないが、面白いでしょ?ね?わかるでしょ?

極め付けはチョーニである。この絶妙なお坊ちゃま感。なんだろうか、ハンプティダンプティ的な何かを想像させる語感である。試しに色々なものに「チョーニ」をつけてみるといい。

ティッシュ→ティッチョーニ

蛇口→ジャグチョーニ

枕元→マクラモッチョーニ

絵空事→エソラゴッチョーニ

全体的に上品になるのがわかるだろう。スリーピースに蝶ネクタイを締めていそうだ。

 

ウンベルト単体でも理想的な響きだというのに、ウンとボッチョの絡み合い、締めのチョーニもいい仕事をして、「ウンベルト・ボッチョーニ」なる極上の名前が誕生しているのである。

この話を何度か友人に話したことがあるのだが、いずれも心配そうな目で見られた。あまり共感を得られない話らしい。たとえ世界中の誰もがウンベルト・ボッチョーニに理解を示さなかったとしても、僕は自信を持ってウンベルト・ボッチョーニこそ至高の名前だと言い続けよう。旗頭となり続けよう。

 

当のウンベルト・ボッチョーニであるが、魂を削るように爆発的な作品を生み出した後、未来派の思想につき動かされて第一次世界大戦に参戦し、戦火の中、落馬により命を落としている。

33歳。短すぎる一生であった。

 

こんな文章を読む暇がある各位は、是非ウンベルト・ボッチョーニで検索をかけてみてほしい。皆目美術がわからない僕でも、色使いや構図の迫力に圧倒される作品をたくさん残している。命をすり減らして書いていたのだろうなと、しみじみ思う。