徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

北山修作詞の歌詞に秘められた覚悟と寂しさ

一昨日我が家と叔父夫妻で飲み会をした後、叔父と二人でカラオケバーに行って二人でさんざん歌った。両親のおかげで50代60代の方との最大公約数的楽曲に多少の耳なじみがあるおかげで、叔父とも盛大に盛り上がれる。現在68歳の叔父だ。年の割には若くて、肌のしわこそなかなかに深いもののその気持ちといで立ちからしたらうちの会社の定年間際の方々と大差ないくらいの老け方だと思う。まぁなんだ、若い。

洋楽だったらビートルズだったりストーンズLennon-McCartneyが楽曲提供した歌なんだとか言って、耳なじみのいいR&Bを歌ったりしていた。日本の曲だと、僕は伊勢正三が精一杯の抒情フォークなのだけれど、叔父にとってはグループサウンズであり、はしだのりひこであるからして、北山修の歌詞なのだ。また叔母がめちゃくちゃ歌が上手い。一昨日は一緒に行かなかったのだが、帰郷の度に一緒にカラオケに行く。そこでよく歌ってくれるのが「花嫁」である。

花嫁は夜汽車にのって とついでゆくの

あの人の写真を胸に 海辺の街へ

命かけて燃えた恋が 結ばれる

帰れない 何があっても

心に誓うの

 一番。

言葉少なに紡がれる花嫁の状況。親から、周囲からはいい顔をされずに半ば駆け落ち同然に飛び出してきた姿。強情なほどに恋にすがっているのがわかる。この危うさが曲が持つ寂寥の念を増している。

帰れない 何があっても 心に誓うの

この一節が堪らない。とにかく危うい。危ういからこそ切ない。

たぶん僕がこの花嫁の友人だったら嫁ぐのを止めるだろう。事情は知らないが、そんなに反対されているならやめといたほうがいいんじゃないかなぁ…どうしてもって気持ちはわかるけどなぁ…って言いながら止めるだろう。どこか現実離れした危うさ、自分にはない勇気、これらにひどく心を打たれる。花嫁がこの先どういった人生を送るのかはわからない。もしかしたら周囲の忠告の通りに思うような生活が出来ず、頭下げて帰ってくることになるのかもしれない。でも、この瞬間の覚悟は本物だ。帰らない。帰れない。

叔父が好きな歌が「風」だ。 

人は誰もただ一人旅に出て

人は誰もふるさとを振り返る

ちょっぴりさみしくて振り返っても

そこにはただ風が吹いているだけ

人は誰も 人生につまづいて

人は誰も 夢破れ振り返る

故郷を思って振り返るときは辛い時が多い。現状がつらくて、あの頃はよかったと振り返る。でもそこにはただ風が吹いているだけ。思い出が転がっているわけでも、慰めが待っているわけでもなく、ただ風が吹く。辛いことから逃げられればいいのに、北山修はそれを許さない。「人は誰もただ一人旅に出て」「人は誰も人生につまづいて」と全員に挫折を経験させ、「人は誰も夢破れ振り返る」。でも、「そこにはただ風が吹いているだけ」。四面楚歌のような状況だ。曲の最後の一節、こう締められる。

何かを求めて振り返っても

そこにはただ風が吹いているだけ

振り返らずただ一人ただ一歩ずつ

振り返らず泣かないで歩くんだ

さみしさに負けちゃいけない。振り返らないで、歯を食いしばって泣かないで歩くことしかない。風しか吹いちゃいないことは判り切っているのだから一歩ずつでも歩を進めていこう。すごく建設的なメッセージでありながら、感情を突き放したさみしさを内包しているように思う。

 

僕たちは何かを選ぶ時、当然のごとく他の可能性を排除していく。北山修が書く歌詞は、優しい言葉に包みながらも取捨選択にまつわる覚悟を迫る。決定とは裏腹の寂しさや後悔を認めたうえで、「負けずに歩け」「振り返るな」「もう二度と帰れない」と時に諭すように、時に自分を鼓舞するように語る。

リズムに言葉を乗っけることに苦心して、意味が分かったようなわからないような曲が多く産み落とされている。そういう曲は歌っていて、聴いていて、とても気持ちがいい。現代人の耳になじむのだろう。この帰郷の折、北山修の詞をしみじみ聴いて、読んで、あらためて日本語を日本語として消化し、ジーンときている。振り返らないで歩かなければならない。振り返ってかまってくれる人はいつまでもいるわけじゃない。自分で自分の道を切り拓いてこその人生。一歩ずつでも歩くんだ。