徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ゴールデンウィーク明けの多摩川を渡る

高架の上から望む多摩川河川敷はよく世相を表す。いや、世相というのは少し違う。休日か平日かが一発でわかる。半年くらい浮き世を離れ、曜日も日も全くわからなくなった後でパッと多摩川河川敷を見たとしても、その日が休みか平日かは瞭然だ。

昨日までの河川敷はすごかった。野球にサッカーにラグビーにゴルフ。球という球を転がしながら老若男女問わずに走り回っていた。なるほどこれがゴールデンウィークかと。梅雨入り前の晴れた空は後に訪れる曇天デイズを予感もさせないでいた。

今日から世の中が動いている。5月病罹患者が漏れなくオフィスビルに突っ込まれ、キーボードを叩く音色と電話の着信音が壮大なコンチェルトを奏でている。指揮者は暦だ。たかが暦、されど暦。暦がどれだけの命を苦しめ、奪ってきたのだろうか。昨日も下総中山で人身事故があった。もろに食らった。

僕はゴールデンでもなんでもない鈍色ウィークを過ごしている。別途休日の補填があるから焦りも切なさもない。嘘です。休みたいです。昨日の車窓から見た河川敷は綺麗だった。それは連休最終日で、もう次の刹那には各々の戦さ場で闘うという、連休最後の灯火だったからだろうか。線香花火は燃え尽きる直前、最高の火花を散らす。桜も咲き誇った直後には散るのだ。

倦怠感をあざ笑うかのように、未だ空は梅雨の予感も見せない夏日である。多摩川に照る日光は昨日と変わらない。気温も。ただ違うのは暦と、それに引きずられた業務と、心持ちだ。それだけだ。