徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

自分の時間がないとマジで苦しい

一人っ子あるあるなのか何なのか知らないが、ここのところ如実である。

基本的に人が好きで、懐きたい。誘われれば断らない。誘いたい人もいる。そんな中、自分の時間を確保するというのがなかなかにシビアだったりする。お仕事がいかんせん繁忙期という社会的モテ期に突入しているので、余計である。

自分の時間とはどこまでをいうかと考えてみたのだが、一人の時間とは意味を異にする。例えば朝とか、通勤とか、帰宅中とかは一人の時間なのだけれど、それは自分の時間ではない。

自分の時間とは何か。それは次の予定に全く起因しない時間だ。

朝の時間を考えてみると、一人の時間には違いないがしかし全ての行為は出社に繋がる。通勤もそう。一人でスマホぽちぽちしているけれど、身体は目下出社ないしは帰宅中。家事なんてこの上ない。行為が生存・生活に起因している。

つまり、寝っ転がって天井に向かって呻いていたり、一人で窓に向かって真剣にライブをしていたり、行為自体で完結しているような行為ができる時間こそ、自分の時間だ。

一人の時間の中に自分の時間は存在しているのだが、どれだけ一人の時間を首尾よく終わらせ、自分の時間に還元できるかが直近の課題である。皿洗いとか、洗濯とか、ほんと何とかなってほしい諸々をさっさと片付けたい。でも、面倒臭い。しかし片付けないことには自分の時間は訪れない。気になるから。頭の中に汚れた食器がちらついたら最後、自分の時間は脆くも崩れ去る。許容できる範囲の汚れと散らかりの中で、全く何にも囚われない一瞬を過ごす贅沢さを追い求めている。

このブログも最初は自分の時間だったんだけど、ここまで続いてくると一人の時間と化してくる。別に誰が望むでもない文章を垂れ流しているだけなのだが、意地半分で書き続けているところもある。何しろここ2年間で3日間記事を書かなかったことがない。マメだ。意地で維持している。だからなんだ。

さて、明日明後日とお呼ばれデイズである。それはそれで幸せなんだ。

ブログも書くんだ。