徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

言葉のベール

言葉遊びが過ぎると言われた直後であるが、それは褒め言葉だと捉えてもいるし、弱点にも違いない。

「空っぽのコミュニケーション」という言葉を見たのは多分どなたかのブログの記事だったかと思う。挨拶に代表される、具体的内容を伴わない(限りなく少ない)コミュニケーションは、全く無駄ではなくむしろ円滑な人間関係を促進している…みたいな話だった。確証は持てない。電通社員のカラオケやべぇって記事も同時期に出ていて、なるほど空っぽのコミュニケーションとはこういうものかと納得したものだった。


なんの本質にも触れない言葉の安心感はすごい。腹を割って話すって言葉の対義語にも相応しいであろう空っぽのコミュニケーション。僕も好きである。得意かどうかはさておいて。確かなことは、圧倒的に滑らかに喋ることができるのは中身が伴わないときであるということだ。

言葉でコミュニケーションを取る僕たちは、言葉によって喜び傷つく。愛や恋を語るも言葉、憎悪や敵意を伝えるも言葉。言葉がなければ人間ではない。ただのヒトとヒトだ。

だから腹を割るにも言葉。しかし、空っぽのコミュニケーションが心地いい間は腹の底なんてマリアナ海溝のそのまた向こうである。一生懸命深いところに潜ろうとしても、水圧にヤラれてどんどん舌は重くなり、息は苦しくなる。

あれ、もしかしたら俺なんも考えてなかったんじゃねーか。喋れない。言葉が出てこない。なんていうかさぁ、難しいよね、なんていうか…

ラインをなんて返そうか迷っているような、親指が空中浮遊しているような、そんな感じで間を埋めるだけの音を発して、心の底のことなんてなんも出てこない。


不意にMr.Children箒星の歌詞が浮かんだ。

最近ストレッチを怠っているからかなぁ

上手く開けないんだ 心が 照れ臭くて

慣れない筋肉がうまく使えないように、閉ざされっぱなしの扉はなかなか開かない。慣れない言葉も喋れるわけがなかった。

上辺の上辺でお話を回すのにはある程度慣れた。だからもう数メートル、潜ってみなきゃいけない。最初は苦しいだろうけど、どうせすぐ慣れると信じている。

僕自身も知らない僕を語りたい。喋って気がつく自分に出会いたい。