徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「苦しみを糧に」みたいな話は全部成功者の論理だ

日頃購読している日経新聞には「私の履歴書」という、財界人や業界の第一人者が半生を振り返る名物コーナーがある。戦時中の壮絶な経験が自分のルーツにあるとか、幾多の困難をくぐり抜けてきたとか、先頭集団を走ってきた人の生き方・考え方はやっぱり強い。毎日楽しく拝読している。

義務教育、高等教育、大学、社会人と、多くの人が想像しうる道をおざなりなスピードで走って行くと、当たり前のごとく凹凸があり、それを乗り越えたり打ちひしがれたりする。「私の履歴書」に記される波乱万丈もその類である。時代や場所や大きさは異なれど、人生における凸凹という点では同じ種類のものだと思う。

成功者は成功しているから成功者。凸凹を越えまくってきている。他者からの評価も高ければ自己評価も高い。すると、凸凹を振り返った時にどう思うか。「あれは必要不可欠な凸凹だった。」こう思う。もっというと、いじめられっ子が大成した場合とかによく話題に上がる「いじめがあったから」論や、田舎出身の人が語る「田舎に生まれたから」論。こうした感想や振り返りは全部、今、上手く着地できているという裏付けがあるから生まれうる。思い出で美味い酒が飲めるのも記憶が淡く良いものであるからだ。思い出したくない記憶なんて吐き気以外何も催さない。

旨い人生を送り、苦難を良しとするためには、結局のところ成功するしかないのだろう。別にそれは人並み月並みスッポン並みでもいい。ほんのひだまり位の成功や幸福でもいい。

人生のひと時でも上手く生きるのは難しい。成功するのなんてもっと難しい。でもその一瞬、ほんの一瞬でも人生に光が刺せば、それまでの苦悩がひっくり返る。ちょうどオセロに似ているんじゃなかろうか。めっちゃくちゃに黒が並んだ苦渋まみれの人生でも、遠く遠くの白は消えていない。大切な良い思い出は消えない。大連鎖した黒の果てに、たった一つ、ただ一つ白が置かれたその時、黒が全部ひっくり返って白になる。

何も勝ち続けなくとも、一瞬一瞬の勝負を降りさえしなければいつか白が置けるかもしれない。勝つためには勝つまでやる勝負し続けることが大切か。別に一つの種目にこだわらなくても、人生だけは続けていく。いつかどこかの勝負で勝った時、多分過去の苦しみもひっくり返る。そこそこ悪くない思い出に変わる。

続いていけ。止まるな。