徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

昨日、誕生日につき

ゴルゴダの丘に磔にされた後、一度葬られたのですが今復活しました。書きます。

 

高校に上がったところで、僕の人生は大きく広がっていく。まず、二重になった。これはとても大きな出来事だった。幼き頃は「野村萬斎の生き写し」と言われるほどの切れ長の目と面長フェイスを持ち合わせていたのだが、中学生も終盤に差し掛かると、不思議と顔立ちもゴツゴツしだし、エラが飛び出て、端的にいうと親父に似出した。そこに切れ長の目が組み合わさるとなかなかどうして不細工である。そう、不細工であった。不細工!あぁ、ブサイク!ところが、なぜかある日を境にして二重が定着していく。女子達が必死にアイプチをする中、僕は望むべくもなく二重を手に入れたのだった。二重になってみて、二重の威力を知った。顔がはっきりする。ピントが合う。タマゴ型から長方形に変化していく顔に、やっとピントが合った瞬間であった。

 

それに前後して彼女ができた。二重の効果かは知らない。同じ部活で不意に出会った子と不意に付き合い出したのだが、部内恋愛禁止という香ばしい規則に縛られた、なんとも酸っぱ苦い恋であった。後に似たような歴史を繰り返すことになるのだが、それはまたしばらく後のお話。しかし、初めての彼女である。「自分に、彼女が、いる。」これだけで思春期の男子なんて喜ぶ。簡単に有頂天である。猿だもの。記憶を辿ると、テスト前、勉強しろよってことで部活が無い期間にひたすら電話して全く勉強しないなんていう青春をした。カワイイものだ。しかし、何しろ狭すぎる世間で秘密をなんとか守ろうなんて全く無理な話なのである。バレるかバレない前に終わるかの二択。バレない前に終わった。

その後すぐまた彼女ができたが、その彼女も別れた直後に僕と付き合いだしたみたいなことで、まじくそドロドロな人間関係が醸成されつつあったんだけど、北海道の片隅の人間関係の濃さからすると割と一般的なドロドロを生きていた。そういう面ではちゃんと高校生!って感じの高校生を生きられたのではないかと思う。

 

ではその他はというと、部活である。良くも悪くも僕の人生を狂わせたのは陸上だ。中学の頃楽しく健やかにしなやかにやってきた陸上が本気100%みたいな監督のもとで花開き出した。冬場雪道でガツガツに走りこんで体幹をバキバキにする、マゾヒスティック極まりないトレーニングがバッチリ身体に合っていたようで、突如として北海道で一番速いマンとなった。これは案外今でも名刺がわりに使えて便利である。関東大会ベスト8とかの方が人口密度からして絶対凄いんだけれど、「あの広大な北海道で一番!?」みたいなリアクションをいただける場合が非常に多い。得してる。彼女の存在もそうだが、北海道一番になってラジオとか新聞とか取材に来ると大抵の高校生男子は有頂天になる。自己肯定感の塊だ。今、高校野球で、それこそ清宮のような超高校級と言われるスラッガーがマスコミの取材をしっかり受けているのを見ると、本当にどういったメンタルをしているのかと思ってしまう。有頂天にならないのですかと問いただしたい。調子乗っていいんだよ。失敗しろよ。青臭い記憶を大人になった時のために今残しておけよ。

有頂天だった僕は有頂天のまま大怪我をして、目標に届かなかった。でも有頂天はいつまでたっても有頂天で、有頂天のままハイテンションなリハビリを続け、アクセル全開急ピッチな回復を見せ、復帰戦でそこそこ場を盛り上げて高校陸上を去った。僕の中ではこの復帰戦は忘れ得ぬ走りで、忘れ得ぬ物語なんだけど、今やこの話をできるのは僕と僕の家族と顧問だけである。歴史の端に葬られている。まぁそれもいい。自分だけが食べられる酒のつまみがあると思えばそれで。場を盛り上げただけで満足はしていなかった北海道で一番速いマンは、リベンジを期して大学でも陸上を続ける決意をする。これが後に自分を酷く苦しめる。

 

ピアノは中学三年生で辞めた。「ラ・カンパネラ」を弾いて、綺麗に尻を捲った。コナン君が新一の服を着るような身の丈の曲だったが、なんとか背伸びしまくって着た。弾いた。

ここからもっぱらの音楽活動はギターと作曲に移っていく。楽器できるやつがやはり何人かいたから、文化祭でバンドをやった。これはびっくりするほど稚拙なものだった。だが、寡占状態だったことも功を奏し、なんかそこそこ弾けるやつみたいなポジションに収まることができた。そこで僕は愚かなことに調子に乗ってギターボーカルに就任する。醤油皿くらいの大きさしかない技量で蕎麦を盛りつけようとした。無理だった。ヘロヘロの演奏で胸を張った。でも、校舎の中庭で演奏している時、ぎゅうぎゅうの観客と窓から覗く観客がパノラマで見えた。あの景色は本当に綺麗だった。下手でも嘘でもあの場所に居たことに意味があると思う。いつかは大阪城ホールで。いつかはさいたまスーパーアリーナで。

BUMP OF CHICKENのコピーをし続けたが、そのうちに曲を作り出した。「内科に行かないか」、「ありおりはべりいまそかり」など、今でも市民権を得ている曲の多くは高校生のうちに作ったものだ。僕からすると岡崎体育やヤバいTシャツ屋さんは全て僕のパクリに当たる。何しろ、その後の創作活動のタネが植えられた時期であった。

 

陸上やる!どこまでいけるか知りたい!そんな熱い想いを抱いて、ぱっちり二重で見定めて上京した。ここからは本当に最近の記憶になる。とりあえずまた筆を置く。気が付いたら誕生日終わってた。