徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

自叙やめます

昨日誕生日で、何書こうかなぁと思いながら生まれた瞬間のことをちょろっと書いたが最後、つらつらと誰が読むか知らない自叙を始めてしまった。完全なまでの供給過多。在庫大量廃棄必至の文であった。

言葉遊びに圧倒されたい時に森見登美彦を読むのだけれど、彼の小説は半ば自叙伝である。自らの生活にピタピタに密着していた京都を舞台に、ほぼ森見登美彦本人である主人公が奔走する。よくもまぁ、あれほど言葉をこねくり回して自分のことを綴れるものだと、心底感心する。褒めています。小説は大なり小なり、1のことを100にして綴るものだろうが、宮部みゆきとかのJ-POP的ミステリー作家に比べると彼の文章はびっくりするほど前に進まない。心情が発泡スチロールの鎧で着膨れしているようである。褒めています。


過去の自分を語る時、過去の自分に興味がある人なんて多分ほぼいない。余程偉い人の自叙伝でない限り、他人の過去に興味なんてない。

それでも書きたい僕らがいる。読んでもらいたい僕らがいる。

じゃあどう書くか。言葉をこねくり回すしかない。事実に興味がないのであれば、言葉の使い方を面白くするしかない。過修飾に次ぐ過修飾で言葉を大きく大きくして、核心もそこそこ笑ってもらうしかない。

多分、自分のことを書く時に言葉数が多くなるのはそういう理由によるもので、無意識にたくさん言葉を盛ってしまう。極地が自叙伝的娯楽小説を多数生み出す彼らである。だから、「よくもまぁ、あれほど言葉をこねくり回して自分のことを綴れるものだ」というのは違う。あれほどまでに言葉をこねくり回さないと自分のことを綴れないし、言葉をこねくり回さない奴は自分のことを綴る資格はないのだ。言葉数の足らぬ者、チラシの裏以上の何処かに自叙することなかれ。

と、いうことで、自叙やめます。言葉足りねーわ。整わねーわ。無理だ。書いていて、読んでみて、生業にしている人たちの文がいかにキチッとしているかを知る。無限に日本語コネコネしているフリして、キチンと読みやすい。サジ加減を知らない僕は、ただのデブみたいな文章になってしまう。

もっと人の文章を読むことでしょうか。明朗な文も、面白おかしい文も書けないなんて嫌なので、乱読してみたいと思います。