徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

亡くなるということ

母方の祖母が亡くなって、一夜、二夜。

一昨年、父方の祖母が亡くなった時、僕は実家に帰らなかった。サラリーマンになりたてだったこともあり、ヘンな使命感が優って、帰郷を見送った。サラリーマンはいくらでも替えの効く特攻隊だということを知らずにいた。

今回は反省を活かして、母の実家つまりは祖母の家で過ごしている。使える忌引きは全て使うつもりである。

床の間に寝ている祖母の前にはお供え物。お線香の煙は途切れることなく、いつまでも立ち上る。話では、煙と共に魂が天に昇っていくらしい。


家には、生前ゆかりのあった人が次々と訪れる。ほんとうに、次々と。来るたびお供え物が増え、とんでもなく豪華なビュッフェみたいな状態になっている。ひとえに、それが祖母の人徳であったということだろうと、口々に皆が言う。


訃報に際して来訪してくれる人と、茶の間で故人の昔話をする。転じて、故人から少し離れたお話に花が咲く。そしてふと、故人の方を向いて、聞こえてるかなあ、聞いているかなあと思う。

ばあちゃんを思ってやってきている人がこんなにいますよ。ばあちゃんの話でこんなに盛り上がって、関係ないことで笑っていられるこの場は、全てばあちゃんが繋げた縁なんですよ。ばあちゃん、見てますか。


死ぬの勿体無いなと思う。もちろん、死ぬの勿体無い人生を生きたいなとも思う。ドライアイスを抱きかかえて後ろで寝ているばあちゃんは、こんなに楽しい席を知らない。見ていても、僕らはわからない。笑っていても、見えない。

しかし結局、これが人間なんだろう。

自分を賭して、どれだけの縁を作れるか。どれだけの喜怒哀楽を生み出せるか。

誰が死んでも世の中は動き続ける。むしろ、動き続けなきゃならない。自分が関わり生んだ縁が、どんどんと続いて行く。頃合いを見て、すうっと自分が抜けていく。床の間で寝ている人が、茶の間の席の最高の立役者となる。なんと痛快なことか。


うまく言葉にはできないけれど、人は自らの命を生きているだけじゃいけないのでしょう。たくさんの縁を生んで巻き込んでいかねばならない。難しいなあと思いつつ、巻き込まれた側としては、生き方を学んでいく所存。