記すことがない日とは、どういうことだろうか。
確かに過ごした一日を、記すことがないということがあるのだろうか。
特段何もしていない。変わったことは起きなかった。
記すことができない原因の多くは、それが日常だからだろう。
日常だもの、記す必要ないじゃない。今日みたいな日は過去にも何度となく過ごして来たから、今更記さなくたっていいじゃない。
本当にそうだろうか。
もし、日常を記すことがない日、記す必要もない日すると、記すべきは特別なことがあった日ということとなる。
はて、僕たちは特別な日ばかり生きているだろうか。いや、違う。ごまんと転がっている普通の日があるからこそ、特別な日が存在する。闇があるから光があるのと同じ論法だ。
日々のほとんどが普通の日。
冠婚葬祭や進級進学につき、ガラッと生活の柄が変わるような節目がところどころで存在するものの、それにも気づけば慣れて、日記にも載らない毎日がまた始まる。ちょっとした感情のデコボコもいつかは忘れていく。
日記には載らない日で構成されるのが僕らの人生なら、特別な日を書き留めたところでそれは人生であり、人生じゃない。日常を記してこそ、嘘偽りない人生となる。
とかく、記せるツールは増えた。SNSの類はなんでもない日を記すのにうってつけだ。大抵はクリック一回で消えてしまうがしかし。
このブログも、もうすぐ900記事となる。
手段と目的がごちゃごちゃになって、「続けるために続けている」ような側面も多分にあるものの、人生録を記しているつもりで書き続けることとする。