徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

余白

川沿いの通勤路を歩いていると、通りに面した家々の洗濯物がひらひら棚引いているのが見える。一軒家も集合住宅も、もれなく川沿いにひらひら。晴れた日の朝に見るそれはとても優雅だ。洗濯機を回す音と、味噌汁の匂いと、洗濯物が交錯する川沿いには、それとない多幸感が詰まっている。

この間まで帰省をしていたのだが、北海道では川沿いひらひらをまず見ない。なぜなら大抵の家に庭があるからだ。洗濯物はそこに干すものだという認識で道産子は一致している。まして冬は洗濯物がたやすく凍る外気だし、雪が積もってしまって物干し竿が雪中にお隠れなさるので部屋干しを強いられる。部屋干しして間に合わない洗剤を、各家庭に常備しているとかなんとか。

土地が広くて地価が安いから庭を作れる。雪を投げる場所がないから庭を作らざるを得ない。事情はどうあれ、北海道の景色が北海道たる所以、東京の景色が東京たる所以は、その余白にあるように思う。悠然と佇む余白だらけの住宅地景観は北海道を、奇跡のテトリスのようにぎゅうぎゅうに押し込められた住宅地景観は東京を端的に表す。

街並み、景観、雰囲気は、余白が醸し出すものなのかもしれない。

余の頭の中は今もなお真っ白である。