徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

iPhoneの画面と人間性

割りたいわけじゃない。画面が、割れることを、止まない。

事の発端は大分前だ。そう、去年の晩秋だったような。家のテーブルからコトンと落ちた。すると、斜めにうすーく線が入った。これが全ての始まりだった。派手にクラッシュしたわけでもなく、静かに静かに瓦解を始めた僕のiPhone。ゴリラガラスの内側に薄く入った線は次第に画面を蝕み、今や全画面がひどく傷んだ状態となっている。

バタフライエフェクト。風吹けば桶屋が儲かる。輪廻や因果の不思議。画面に薄く入った傷から全てが崩れて行くのは、自然の摂理か。今の世の中、iPhoneの画面が人間性を表すみたいなところがある。すごくギャルっぽい出で立ちなのに、シンプルなiPhoneケースに入ったピカピカの画面をしたiPhoneわ持っていたらどうだろう。きっと見直すだろう。じゃあ、どんなに着飾って整った外見をしていたとして、iPhoneの画面がバッキバキだったら。幻滅じゃないか。

僕は誠実な人間だ。少なくとも、いいやつでいようと思っている。いいやつでいようと思っているので、十全にその努力が現れていたとしたら、僕はいいやつである。そんないいやつのiPhoneがバキバキなのだ。悲しい。僕の心はiPhoneじゃない。勘違いしないでほしい。ただあの時、あの瞬間に、コトンと机から落としてしまっただけ。それだけなのに、なんとなく人間性を疑われるようなiPhoneの画面である。悲しい。とても悲しい。

iPhoneの買い替えに資金を向けられるほどのブルジョアではない。でも、今、晩御飯が面倒くさくて大戸屋に入ってしまっている。この大戸屋を家の飯に切り替えられれば、どれだけiPhoneの買い替えに近づくのだろう。わからない。それは砂や星の粒を数えるのと等しく、果てのない道のりだ。行けるだろうか。萎えるだろうな。

バキバキの画面を叩きながら。京急蒲田の大戸屋にて。