徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ふるさと

振り返ればふるさとは

場所ではなくてあなたでした


これはGLAYのホワイトロードという曲のサビだ。2005年くらい、バキバキにカッコよくて20万人を幕張に集めたGLAYの残滓が残っている頃の曲。超メジャーで超キャッチーなサビメロにはひれ伏すしかない。


別にGLAYに限らず、ふるさとは場所じゃなくて人だって話は溢れている。故い郷里だから故郷とすれば、ふるさとは間違いなく場所だ。けど、かの有名な童謡「ふるさと」の歌詞にも、「如何にいます 父母  恙無しや 友がき」と人への言及があるあたり、別に場所でなくてもいいらしい。


その昔、一人の人にとって一つの村が世界の全てに成り得た時代。場所は人だったろうし、人は場所だったのだろう。知った顔の大半が当たり前のように地元で一生を終えて行く中、郷里を離れた人間が振り返るその場所には人が居たし、思い出す顔には風景があった。

今は違う。世界は広がり、広がりすぎた結果狭くなった。

生まれた家、育った家、物心がついた家。たくさんの場所に家があり、仲の良かったはずの友達は今どこで何しているかわからない。もしかしたら一生会わないかもしれない。広がった世界で散らばった郷里。いよいよ、ふるさとは場所じゃなくなる。

だから人は大切だ。

だけど、人はどこまでいっても他人なのだ。

人に頼み、人に頼られた人ほど、人がいなくなった時に脆くなるのを僕は知っている。信じすぎるのも、信じないのも、人生を狂わせていく。


人間はとにかく弱いから、何かに寄りかかって生きている。人であり、場所であり、宗教だったりもする。幸い僕はまだふるさとがあって、故郷には人がいる。これが僕を大きく支えている。ふるさとに帰るたびに思う。一方で、もしかすると人と場所が一致する最後の世代なのかもしれないとも思う。自分がどれだけ故郷を思えど、他の人がどうかは知れないから。


加速度的に場所にとらわれない生き方は加速していく。止められないだろうし、大流から見たら止まらない方がいいだろう。止める気もない。僕が北海道に帰ろうと、次の世代は脱出するかもしれない。やっぱり次の世代も他人だから、わからない。

でも、平たく言えるふるさとがあるのは悪くない。ふるさとを作れる選択肢が残る未来があってもいいとは思う。

で、お前はどうするんだと言われても困るんだけど、それだけです。