徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

I need you to ree

あの、なんというかこう、頑張るとかちゃんとするとかそういうのって、とかくきっちりしなきゃいけないとかしっかりしなきゃいけないとかって方向に向かうことが多くて、そうするとゆとりがなくなるわけですね。

きっちり・かっちり・しっかりなどの、せっつかれてる感じの単語に四方八方を包囲されている状態が、ゆとりのない「忙しい」であるとすら定義できるのではとも思います。

ゆとりを生む方法は多分いくつかあるとは思うのですけれども、多分一番大きいのがルーティン化だと思います。赤ちゃんは何一つルーティンじゃないから生きることに懸命だし、車の運転がルーティンになってない人は運転したくない。運転したところでおっかなびっくりドライブ。しかし一度ルーティン化してしまうと驚くほど楽になるのは誰もが自明なことでしょう。そのためには苦しくても習慣として何度も何度も繰り返す必要があるのも、お判りかと思います。

ルーティンになっていない時、心はいっぱいいっぱいです。何から手につければいいのか、何をするにも慣れない。そう、やはりゆとりがないのですね。このゆとりの足りなさが、あらゆることを悪い方向へと向かわせます。思考も、行動も。ある種、幼児のヒステリックは当たり前のことなのでしょう。上手くやりたいのに上手くいかない。伝えたいのに伝えられない。そりゃあイライラもするだろうし、自らの無力感に打ちひしがれる。その上適当にあしらわれた日にはヒステリックにもなろうよ。シンパシー。

幼児たちが強いのは、どんな無力感にも立ち向かっていくんですね。めげない。めげるけど、立ち上がる。諸々事情はあるでしょうが、個人の趣向から立ち上がるのを諦めた赤ちゃんはいないでしょう。わからんけど、ほとんどいないと思う。他に発散する方法を知らないんでしょうね。愚直に立ち向かう。一方大人は小賢しいものです。発散を知っているから、発散しなきゃゆとりを持たなくなる。倒れて起き上がるだけなのに、起き上がれなくなるから、発散したがる。なんと情けなくなったものなのでしょうね。


こうしてですます調で書くと、ほんの少しゆとりが生まれた気もします。優しくなれますね。優しくなりたいですね。人間同士お互い余白を用意して、人付き合いしたいものです。