クタクタのネルシャツとチノパン、ダンロップのズック、アメ横で売ってるようなリュックサックを背負って佇む中年男性が、一心不乱に電車を眺めているとすると、彼は鉄道オタクなのだろうと多くの人が思うだろう。
試しにコミケになんか行ってみると、同じような出で立ちの老若男女が同人誌とコスプレにうつつを抜かしている。
なんでオタクは服装に無頓着なイメージを持たれているのか。
普通の服装ってあるじゃん、普通の服装にすればいいのに。自分が普通だと思っている人はそう思う。服装にもう少し気を付ければいいのに。
そもそも、人が持ちうる資源の総量ってあらかた決まっている。先日は時間配分について書いたけど、「気をつける」についても資源は有限だ。
バランスよく気をつけられる人は世間的に優秀だ。服もちゃんとし、部屋もちゃんとし、人ともちゃんと付き合い、仕事もちゃんとする。凄い。到底できない。
でも、この姿、超人の姿こそ、普通の人とされてしまっている。
実際僕らには趣味趣向があり、価値観があり、有限のリソースを優先順位つけて投下している。そのバランスなんて偏って当たり前だ。何かに夢中になれば何かがおそろかになる。仕方ない。100が150になるわけじゃなく、100の配分を変えてるだけなのだから。
辛いことがあって、多くの資源がそれを消化するために使われているのに、普段通りの生活ができるはずもない。でもみんな繕って頑張っちゃうから、超人みたいな人が溢れて、普通になる。
人それぞれ資源の総量も違うだろうし、配分の器用さも違う。でもそれが個性でしょうに。けど、そうはいっても求められるのは超人。とかく生きづらいですよね、世の中。
優しさとか、大らかさとか、ダイバーシティをどうこうとかいうけど、それは多分全部理解に基づくもので、理解できないと怒りや不安がもたげるし、理解できれば安心する。漠然と「色々な人がいる」ことを理解しても、それは理解じゃない。目に入っているけど見ていない。「この人はこういうところに自分の気持ちを傾けているからこの部分には力が入っていないんだなぁ」ってぼんやりでも考えられればどれだけお互いに楽なことか。
とはいえ、本日も絶賛普通の人をやりまくっている。これぞ社会。これこそ世の中。