徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

始まらない一日、終わらない1日

一日が始まるとは、1日が終わるとは、なんなのだろうか。

区切りは睡眠のように感じられる。特に子供の頃はそうだった。睡眠をとって、起きたら全く新しい1日が始まる。昨日の体調とか昨日の友達とかみんながみんな新しいものになって始まっているような気がしていた。

でも、そうじゃない。寝たって世界は変わらない。びっくりするくらい昨日と今日と明日は繋がっていて、なんの違いもない。だから明日から頑張るなんて詭弁は存在しないのだ。明日の自分なんていないんだぞ、今の自分がただそこに居るだけだぞ、頑張れ受験生。

 

働いて飲んで歌って一瞬気を失って、また働いて日をまたぐ。

そうした時果たして僕は何日をどう生きていたのかわからなくなる。1日を終えずして暦の上では「次の日」に突入しているが、一方で自分はなんの仕切りもない自分を生きている。当たり前だけどめっちゃ疲れるし、めっちゃしんどい。1日が終わらない。3日くらい続いている。

 

かと思えば、休みの日に起きていても何をするでもなく気づいたら日が沈んで終わっていく1日もある。勿体無い気はするのだけれど、3日分を生きた1日があるのであれば始まらない1日がないと釣り合いが取れないのだろう。

 

毎日が途切れることなく続いていくものだと把握してしまったあと、僕らは毎日、きちんと1日を終わらせ、1日を始める必要が出てくる。受動的に構えていると今が続いてしまうから、能動的に1日を終わらせなければならない。しかし、とかくグズグズになる。律していなければ、昨日と今日と明日が撹拌されてスムージーかの如くドロドロになる。

明日への扉だ、明日への希望だ、明日へのマーチだ、明日に希望を託すのは結構だが、大層なものが待っているわけじゃなく、風呂入って歯を磨いて着替えて寝た後の何も変わらない自分がそこにいるだけだと、みんながわかっている。でも、区切らないと怖い。何も変わらないことはわかっていても、宗教の如く明日を思わないといられない。

逆に、明日への恐怖から逃げたくて、今日を終わらせたくなくて、ずっと起きていても明日はくる。それは明日というより、当たり前に来る時間でしかない。

明日という存在に希望を抱くことも、逃げることも、ふさわしくないのだろう。

今ばっかり。全部、今なのだ。