徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

インスタント天国・風呂

たまに湯に浸かる。どんなに時間があってもシャワーしか浴びる気がない時もあれば、働いてご飯食べて眠る体制を一刻も早く整えたいくせして無理やり湯を張ることもある。特に入浴に対するこだわりがないからこそ、ナチュラルな状態で湯浴みと向き合っている。本当に気分ひとつだ。

しかし、割合からすると圧倒的にシャワーが多い。時間を取られることなく、簡単にさっぱり感を得られる。油と汗にまみれた皮膚を、整髪料で息苦しい頭皮を、靴の中で蒸れきった足元を生き返らせることこそ湯を浴びる最大かつ最高の効能だとすら思う。

そうして来る日も来る日もシャワーを浴び、安くて浅いさっぱりばかりを享受していたところで、不意に湯に浸かりたい衝動に駆られる。前頭葉を鷲掴みにされたが如く、湯を求める。湯を張れ、浸かれ、今日だ、今だ。面倒臭いを押し、眠気すらも圧縮して湯に浸かる。それでも時間を取りたくないから43度くらいの熱いお湯を張り、満を辞してずぁぁぁぁっと浸かる。細胞がうめき声をあげる。全細胞のうめき声が喉を震わせて一人のバスルームにこだまする。気功の達人でもこんな声出さない。深い森が突風にさざめいたかのような、奥底の方からのうめき。まさか自分から出た声とは思えない。

油も汗も蒸れも、全部湯に溶けていく。湯に潜る。湯で洗う。原始との触れ合いを感じる。遥か昔、爬虫類とも哺乳類ともつかない姿の先祖が陸に上がる前、激烈な環境の海を生き抜いたかつての記憶が戻ったような戻っていないような気になる。巡る。巡るのは記憶でもなんでもない、血液である。全血管が細胞のうめき声に目覚め、猛烈に広がる。上京して牙をもがれた元ヤンが地元に帰った時の態度かのようだ。都会の水に冷え切って萎縮した血管がここぞとばかりに広がる。片側二車線だった道路が四車線に。北見の国道がサンフランシスコのハイウェイに。どんどんと血は走る。5分もすれば末端が痒くなりだす。血が細胞を完全に目覚めさせているのだ。うめき声ではない、今度は動いている。喜びの声を上げている。ようやっと命が吹き込まれた細胞たちが喜びを歌っているのだ。手指、足、足首。ポカポカである。そう、ポカポカなのだ。ポカポカに乗じて、疲労感がグググと主張してくる。疲れが末端から滲み出てくる。血液の大河が栄養を運び、老廃物たちは川を遡上する。末端にたまっていた疲労を僕らはその時初めて認識するのである。末端が必死で向き合っていた疲れを、今度は心臓にリンパに戻してあげて、回復に努める。明日もこれでまた戦っていくのだ。

たまに浸かると、イイよ。