徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

各駅停車とスマホの電池

急がない道のりが好きだ。もっと早く着く移動手段があるのに、あえて歩いたり自転車に乗ったり各駅停車に乗ったりすると、なんとも贅沢に時間を使っている気分になる。

余分な時間はどんどんとなくなっていっている。便利になり、速くなり、手軽になっていく一方で、針に糸を通してチクチク縫うような、前時代的とも無駄とも言われそうな時間が駆逐されている。僕もAmazonやらなにやらで時代を享受している身で、そんな奴が何を言ってもたわ言なのだけれど。

不便を便利にすると、そこに隙間が生まれる。これまで10かかっていた時間が5になると、5の余分な時間が生まれる。僕らはこの時間をどう使うかと言えば、さらにお仕事を突っ込む。10の時間で2倍3倍の働きができれば万々歳だ。

そんな生産性からの要求に解き放たれる瞬間がすなわち、歩いている間であり自転車、各駅停車の上なのだろう。もう、どうしようもない。黙るしかない。生産性もへったくれもない。隙間なく物事が並べ立てられている世界にぽっかり空いている空白こそ移動時間。

丁寧に作られたハンバーグがやっつけ仕事の冷凍ハンバーグより美味しいように、生産性にとらわれないたっぷりした時間はどうしても魅力的に映る。空き時間に立ち寄るコーヒー屋さんもそうだ。


つらつらと文書を書いている間に、iPhoneは電池の半分を吐き出している。最近めっきり充電の持ちが悪くなり、そろそろ買い替えどきかと思いつつもどうやらiPhoneが値下げされるらしいニュースを見かけたものだからそれまで待とうかと逡巡している。

電池がなくなるからとスマホを触らない時間が多くなっているが、買い替えたらそうはいかないのだろう。贅沢だ空白だ時間は自由だと宣いながら、スマホに操られる日々となるのは目に見えている。

一昨日買った文庫がとても良くて、久々に文章の力を思い知った。言葉に心象風景が乗って、自分の中で再生されるあの感覚は決して動画には出来ないもので、貴重だ。心の余裕をこじ開けられたような気がした。


という朝でした。