徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「ニューエクスプレス アイヌ語」が面白すぎて

この本の話です。

 

CD付 ニューエクスプレス アイヌ語

CD付 ニューエクスプレス アイヌ語

 

 

このところ、資格試験勉強のために図書館に行くことが多い。それなりに学ばないと敵わない試験なので、出勤前やら何やら時間をやりくりしながら勉強に勤しんでいる。

 

1時間2時間と時間が経つと集中力も切れるというものだ。図書館にいる際は適当に書架を眺めて、パラパラと本をめくり、全然違う方向に考えを飛ばしてから勉強に戻る。

そんな折に手に取ったのが本書だった。疲れてアイヌ語の教本を手に取るあたりから、日頃の疲れがよくわかるというものだろう。一種の錯乱状態である。労いの言葉お待ちしています。

 

さておき、北海道出身のよしみでページをめくったのだが、瞬く間に本書のトリコとなってしまった。

 

何故か。

 

本の内容はいたって普通の語学教本である。基本的な文字と発音を冒頭でさらった後に、文法を学ぶ。文法については簡単な会話例をなぞりながら、英語で言うbe動詞とは何かとか、人称ごとの単語の違いとかを学ぶ。なんの変哲も無い内容だ。

しかし、会話例がめちゃくちゃ面白い。

試しにチャプター1、最初の会話例を見てみたい。ちなみに、この例文から学ぶのは、「肯定文・疑問文・否定文・命令文の組み立て方」と「了解(はい)の言い方」である。アイヌ語を書いても訳がわからないと思うので、和訳を記す。

1 これはギョウジャニンニク?

 

娘:お母さん!これはギョウジャニンニク?

お母さん:ギョウジャニンニクだよ。

娘:これはニリンソウ?

お母さん:いいえ、ニリンソウじゃないよ。これはトリカブトだよ。

お父さん:トリカブトはおそろしいものだぞ。さわってはいけないよ。

     よーく、ニリンソウだけ選びなさい。

娘:はい!

 

(ニューエクスプレス アイヌ語 P21)

これが、本書に掲載されている一番最初の会話例文だ。

 

英語やスペイン語の教本の最初の会話例文を考えてみると、学校に入学するシチュエーションとかで、自己紹介をする文章が多いだろう。中学の教科書もそうだった。大学の第二外国語の教科書だってそうだった。

しかし、それは僕らの文化圏での当たり前でしかない。

会話例文には、学ぶ言語の文化が色濃く現れるようである。アイヌの文化に置いて、ギョウジャニンニクの採集、ないしはトリカブトとニリンソウの見分け方は最重要課題なのだ。きっと。にしても、あまりの異文化具合に笑いが止まらなくなった。カルチャーショックである。こんなにもアイヌナイズされた会話なのに、挿絵は一般の家族がハイキングに行っているような挿絵が掲載されているあたりも面白い。

 

チャプター4では、自己紹介が掲載されている。

4 あなたのお名前は?

 

若い娘:あなたのお名前は?

妻:マキといいます。

若い娘:すてきなお名前ですね。

妻:ありがとう。

若い娘:この小刀はあなたの小刀ですか?

夫:僕のですよ。

若い娘:小刀を抜いてもいいですか?

夫:いいけど、歯が鋭いから指を切らないようにね。

若い娘:鞘も柄もあなたが彫ったの?

夫:僕が彫ったんじゃないよ。

妻:私が彫ったのよ。

 

(ニューエクスプレス アイヌ語 P35)

なんの変哲もない自己紹介かと思ったら、突然小刀が登場する。びっくりする。当人たちにとっては当たり前でも、びっくりする。「若い娘」という登場人物も無骨な感じで、文化の香りを感じる。

 

と、ここまでの内容は、アイヌの文化に準ずるものだった。

それぞれ、チャプター1では、山菜採りは女性の主な仕事であり、ギョウジャニンニクは栄養価が豊富で貴重な食料だったこと、チャプター4では、アイヌの男性は刀に精巧な彫刻を施しており、かつては男性が女性に求婚する際に技術を競ったものが、時代が下るにつれて女性も木彫りの技術を追求するようになったことなど、補足の記載もあり、至って勉強になる知識を学べる。

 

しかし、チャプター5。

5 働いて手が痛い

 

若者1:今日は一生懸命働いたので、手が痛い。

若者2:何をして手が痛くなったんだ?

若者1:竹を削って矢を作っていたので、手が痛くなった。

若者2:僕は腰が痛い。

若者3:何をして腰が痛くなったんだ?

若者2:木を切って臼を作っていたので、腰が痛くなった。

若者3:僕も足がしびれた。

若者1:何をして足がしびれたんだい?

若者3:何もしないで一日中座っていたら、足が痺れた。

 

(ニューエクスプレス アイヌ語 P43)

若者3。この若者3である。若者1と若者2はわかる。よく働いた末の痛みだ。働いた後の酒はうまい。きっとこの二人は今日うまい酒を飲むに違いない。だが若者3。お前はどうだ。何もしないで一日中座っていた?何もしないで、一日中座っていただと?働かざるもの食うべからず。ノーワークノーペイ。よくも勤勉な若者1と若者2の前でいけしゃあしゃあと。貴様の足の痺れは怠惰の痺れであり、若者1や2の疲れや痛みとは全く別の種類のものであることを思い知れ。というか、何もしないで一日中座っていたって、何をしていたんだ。木の葉が擦れる音でも聞いていたか。湖のきらめき、川のせせらぎでも聞いていたか。じゃあそれを申告したらいいじゃないか。「川のせせらぎを一日中座って聞いていたから、足が痺れた。」これの方がよほどロマンチックだろう。そういう申告もしないということは、きっと君は本当に何もしないで一日中座っていたんだな、若者3よ。がっかりだ。だが、今日のところは仕方ないとして、明日からは若者1や2のお仕事を手伝ったらいい。この会話の後、若者1・2と3の間がちょっとギクシャクするのは想像に難くない。「こいつ、俺たちが働いている間、何もしないで一日中座って足が痺れたとかぬかしてやがる…」って1と2は思うはずだ。3のことを少し敬遠するかもしれない。その亀裂を埋めるのは3のこれからの努力であって、3の誠意だ。「竹、削るの手伝おうか?」「君が臼を作るなら、僕は杵を作るよ。」この一言が言えたら、3はきっと飛躍的に成長する。暁には、3人でうまい酒を飲むに違いない。幸あれ。

つまり、そういうことである。

アイヌの文化の皮を被った、人間模様。考えてしまう。

 

とまぁ、こういう会話文が散りばめられた20のチャプターがあり、アイヌ語に親しめる本書。脳みそが疲れた時に一陣の風を吹かせてくれる名著である。こうした全く違う文化に不意に触れられるのが本の、図書館のいいところだろう。検索して、情報にめがけて突っ込んでいかなくても、視野を広げて手に取った本で、ここまで心が潤うのだ。

大変に有意義な読書体験だった。

 

余談だがもし、アイヌに興味をお持ちなら、以下の本もおすすめである。

 

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

 

 

大学生の終わりに暇の慰めに読んだけれど、言語的な面から、縄文人・オホーツク人との交易や文化の交わりなど、アイヌという民族の人となりを知ることができる。

 

オホーツク、阿寒の方にはアイヌ文化が色濃く残っている地域もあるので、近くにお越しの際は本書を携えて寄ってみたら面白いかもしれない。

皆でギョウジャニンニクを採集しに行きましょう。