徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

目には目を

何がとはわからないけれどどことなく心身ともにだるい気がしながらも、引くに引けないからといってぎゅうぎゅうの核弾頭に身体を突っ込んで出勤しているサラリーマン諸君、お疲れ様です。僕も同じようなものです。ご苦労様です。
なんでだるいのか。なぜ、憂鬱なのか。そこまでは行かないまでも、休日が幸せという世の中の通念からして、なぜワークデイはホリデイに比べて幸せではないのか。土日を待ち焦がれる心、月曜日が憂鬱なマインドとは。学生時代もそうだった。学校が楽しみで楽しみで!というあの感覚は、多くの人が小学1年生あたりで卒業する。小学20年生、30年生になってしまった僕たちは、あの瑞々しい楽しみ、じゃんけんしよ!で友達になれてしまう魔法のようなコミュニケーション能力の応酬は忘れてしまっている。デスクにかじりつき、叱責に怯え、声が詰まり、ブルーライトに目がチカチカしながら無為の日が暮れる。そりゃあワークデイ楽しくないわ。そらそうだ。

人間関係とか、相手が存在する種類の憂鬱を自分の努力一つで解決するのは大変に難しい。相手の人生と自分の人生、社会に出るまでと出てからの環境において大概凝り固まった人間性同士があわないとか、圧倒的偏屈な人間性を持った相手が君臨しているとか、どうしたものかと思う。そうではない悩みの種類、明らかに自分に原因が帰属しているもののほうが解決しやすいようにも見える。自分が変われば、自分がやればいいから。

ミトコンドリアの内部構造のごとく入り組んだ社会、発生する問題を、とかく難しく捉え、目をそらしながら休日を貪り、月曜日の電車に吸い込まれれていっている。だから休日が楽しいのでしょう。
でも結局、これ、当たり前だけど目には目をで戦って行かないと本当に健やかな休日なんて訪れない。積み残された仕事と人間関係に向き合わないことには、全てを忘れた素敵な休日とさわやかな月曜日の朝なんて来ないのだ。
逆説的に、連綿と仕事が仕事を呼ぶ現代社会、人と人がコンタクトし続ける世の中である限り、諸問題は発生し続けるのですね。酷い話だ。

何本かネジ外て鈍感さを担保しながら、やっていきたいものである。目には目を、直視するのはとにかくストレスたまるし、そのストレスからも逃げたい気持ちはわかるけど、全ては健やかさのため。
勤労の気持ちをもって本日も。