徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

低予算にかかる魔法

時にはブロムウィッチプロジェクトが引き合いだされたり、最近だとカメラを止めるな!もその類だろうが、低予算映画が思いもよらず傑作になるケースがある。無名監督と無名俳優が趣向を凝らしまくって、予算何百億のスピルバーグと鍔迫り合いをする。やはりジャイアントキリングには夢がある。

別に映画に限らず、低予算寄せ集めチームの奇跡だったり、低予算番組のゴールデン進出だったり、同様の話は結構転がっている。

金があればいいものができる、金がなくてはいいものができない。どちらもある面では真実だろうが、ある面では真実ではない。僕自身、自由に使えるお金が決して潤沢にあるわけではない企業に勤めている。感じることを書く。

 

翻訳機としてのお金

奇跡の発明と言っていいだろう。お金は本当にすごい。

日常生活には欠かせないものとなっているお金だが、あれの本質は何かと言えば、2者間で価値を交換する際の翻訳機である。

佐藤さんはお米をたくさん持っているけど、お魚が欲しい。高橋さんは綿をたくさん持っているけど、お米が欲しい。高橋さんはお米が欲しいから佐藤さんに交渉をする。ねぇねぇ、綿あげるからさ、お米ちょうだいよ。でも佐藤さんは綿を必要としない。お魚が欲しい。するとどうなる、交渉決裂である。逆も然り。お魚を潤沢に持っている鈴木さんがいたとして、佐藤さんは鈴木さんにお魚をが欲しいと交渉をするも、実は鈴木さんはたまねぎが欲しかった。これもやはり交渉決裂となる。

お金は通貨ともいう。共通の貨幣。通じている価値。佐藤さん、高橋さん、鈴木さん、それぞれの取引の間にお金が挟まることにより、スムーズな価値の交換を行なっている。

それはまるで、日本語とスワヒリ語間のコミュニケーションに翻訳機を挟むようなものだ。言葉のコミュニケーションか、価値のコミュニケーションか、コミュニケーションに使用するものが違うだけで、前者では翻訳、後者ではお金が使用されている。

 

今のお金の立ち位置

4年前に亡くなった父方の祖母は口癖のように、「お金がないのは首がないより辛い」と話していた。小学生にも満たない孫にお金の大切さを擦り込んだ教育方法の良し悪しは不明だが、事実、今の社会ではお金がないと立ち行かなくなる。

それはなぜかといえば、社会全体がお金に価値を見出しているからだ。

佐藤さんのお米より、高橋さんの綿よりも、国が発行している通貨に価値を見出し、あらゆる取引が価値の翻訳機である通貨を介して行われれている。お金がないというのはすなわち、「たくさんのお米」や「たくさんのお魚」のような交換材料になりうる資本の不足を意味する。資産家・資本家だとかファウンダーが存在し、資本の後ろ盾が人間の力や価値を決めうる資本主義社会に生きる上では、やっぱり「お金がないのは首がないより辛い」。

だからこそ、お金に左右されるのは、今や当然の価値観だ。

「それだけしか払えないならやれませんよ。」

「この仕事するならいくら必要ですよ。」

何かを企てて、誰かを仲間に入れようとした時、当然のごとくペイが発生する。それは、仕事をする人に対する価値表明でもあるし、仕事自体に対する価値表明でもある。もちろん仕事を受ける人も、社会の共通言語としてのお金がないと社会生活を送れないから、お金を要求するし、お金をもらってうからこそやらなきゃいけない。お金は仕事のクオリティへの保証でもある。

 

社会の当然に慣れてしまった僕らは、忘れてしまっている。お金には本来、価値がない。

あくまで、コミュニケーションを行う上で便利だから、価値を見出しているだけで、本当に欲しいのはお金の向こうにあるお米やお魚だ。

 

低予算の追い風

「低予算」。これはお金がない分、本質的なコミュニケーションで物事を動かすしかない。それ自体、そのものに価値を見出してくれる人たちが集まらないと、低予算は成立しえない。

お金はないんですけど、こんなことやろうと思っています。

なんとか力を貸してください。

資本主義に逆行する、前時代的な取引。だが、前時代的だからこそ本質的で、これに突き動かされた人間はお金と時間を天秤にかけることなく、一目散に動き出す。

共通の母国語同士でのコミュニケーションがスムーズであるように、お金を介さない価値のコミュニケーションも、やはりスムーズで、さらに強固だ。動機付けは不純物が少なければ少ないほど強い。組み木で作った建築物が、ボンドで作ったそれよりも圧倒的に頑丈なのにも似ている。

 

そういった背景から、低予算すなわちパッションの塊であると言える。でなきゃ低予算足りえない。あらゆる本気が密集したそれを、社会がどう見るか。

哀しいかな、低予算で生まれてくる作品は、多くの場合、小さな集団の中だけの通貨となってしまい、社会で通用しない代物が出来上がる。学生の制作物などを考えるとよくわかる。文化祭とかのアレやソレは、お金はないけど、同じ価値観とやる気を持ち寄って出来上がる。パッションだけは溢れているから、セルフ満足度はめっちゃ高い。

社会に出て無味乾燥な資本ライフに突入すると、パッションで物事が動かないことを学ぶ。金しか見てない。みんな、金で動いている。しかし稀にやってくるのだ。低予算を喉元に突きつけられる時が。チャンスだ。何も持っていないからこそ、何かが生まれうる。わらしべ長者が最初にお金を持っていたら家を買えただろうか。無理だったろう。藁から始まる物々交換だったから、お金という不純物を挟まない価値のコミュニケーションだったからこそ、あの物語が生まれている。

 

 

億千の有象無象のパッションの上に、低予算の殿堂がある。揺るぎない事実だ。

でも、生活や資本を度外視して人の気持ちで動き出した仕事は、走っている時もすごく楽しい。一円の金にもならないけど面白そうだから加担するプロジェクトほど面白いものはない。僕の仕事と線を引いていては出会えないものがそこにはある。

自分がしたいことを、どう伝え、仲間を増やすか。人の余力を、どう本気にさせるか。

 

これから先勤め続けるのか違う人生に突き進むのかはさておき、低予算のツボを少しでも垣間見れているのは貴重な経験だと思う。明日からもまた。