徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

二曲目完成報告。多分こう言うのをやりたかったんだと思う

二曲目が完成した。

youtu.be

大量生産体制に入っている。寝不足である。

以前録音した同曲が以下であることを考えると、きちんとした道具を揃える事がどれだけ重要なことかがお分かりいただけると思う。

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しょっぱくて聞いていられない。が、これでも一昨年のマイ最先端技術で作っているわけである。胸を張りまくっていたわけである。弘法筆を択ばずなんて嘘だ。筆はいいものを使ってなんぼだ。

 

前回録音からテンポを上げて、道具のクオリティを頼りにパンキッシュな感じに仕立てて見たのだが、多分僕はバンドでこう言うのをやりたかっんだと感じた。ものすごくしっくりきた。

中高生。みんなと同じようにバンプを聴き、エルレを聴き、その2バンドを入り口として色々なJロックのバンドを垣間見た。結局、体の中に根ざしているのは縦ノリのリズムであり、最近流行りのSuchmosとかも恐ろしくかっこいいと思うんだけど、心のどこかで飛び跳ね続けられる何かを求めている。一人遊びでバンドができる環境に出くわすと、そういう曲を作りたくなる。

どうでもいいんだけど、パンクとかオルタナとかと言われる一派の凄いところはギター(大抵同じように歪んだ音色の)とベース(大抵ピック弾き)とドラム(泣きのハチロク)で様々な曲を生み出す点にある。One more typeみたいな曲をもう10曲作れとか言われたら卒倒する。無理じゃん。そんな引き出し数無いじゃん。業界全体でネタ切れでしょって雰囲気が充満しているところにWANIMAみたいなのが出てきたりするものだからわからない。こんな感じでどの業界もまだまだ深掘りできるんでしょうね。

あと一つ。一人で曲を作っていると、どこで完成とするかがめっちゃ難しい。誰かが輔弼しててくれないとめっちゃグダグダなところで妥協しがちである。若干ボーカルが遅れてるとか、許せる範囲で目を瞑りまくるんだけど、妥協が積もり積もってどんどんとクオリティが下がる。どこまで歯を食いしばって質を求められるかの勝負である。ある種現役時代の筋トレとかに通ずるものがある。

「望みは高く、意志強く」

これは我が母校の校歌の一節であるが、今こそ心に染みる。望みを高く掲げねば世の中では通用しない。望みに近づくためには、意志が強くなければならない。だから「望みは高く、意志強く」である。どちらが欠けてもいけない。

とにかく書く文章にもまとまりがないので、今日は早く寝ようと思う。

八方美人

無意識に八方美人になろうとして生きて来た。敵なんて作らないに越したことない。苛立ちや嫌悪はお互いにとってのデメリットである。そうであれば、みんなまあるく、みんな優しくなれるように、お互いを慮って行くしかないのだがしかし。

誰も彼もが各々思うところがあって、個々人だけならまだしも集団としての思い(ルールみたいなもの)もあるものだから、何を採用していいやらわからなくなりがちな挙句、目の前の個人的な便利に飛びついたりする。結果、その便利ややり易さが世の中(所属する集団)のルールに背いてたりして、知らない間にえらい評価を下げてしまっていたりとかって惨事が簡単に訪れる。忠告を受けるうちはいいが、泥沼に突っ込んでからじゃ遅い。泥沼に生きる人を見習ったら即泥沼に落ちるし、世間的には超まともなの後ろを追えば超まともに育って行く。哀しいかな、ついて行く人を選ぶのは下に入るものであり、四方八方全てにうまくやれる人など一握りしかいない。

自分はせめてそこそこ八方に美しくあろうと考えては来たのだが、うまくはいかないらしい。自分が雌阿寒岳だとして、アンナプルナほどのコミュニケーション能力と状況を判断する力を備えたスーパーマンが前任として君臨していた。無力だ。爆発するしかない。噴火してはるか北見市街まで火山灰でも詰まらせてやろう。八つ当たりである。部屋干しで生乾きの匂いがする世帯だらけにしてやるっ!

不断の反省と後悔を胸に抱いて生きて行くしかない。生きながらにして誰もが納得いく価値観を生やしている人間がいることを先日知ったばかりであるが、少なくとも僕はそうではない。至極中途半端で情けない人間だ。だからこそ、読むべきところは読むし、習うべきところは習う。知り続けなきゃいけないし、溶け込み続けなければならない。

骨折でそう簡単に人は死なないが、癌では簡単に死ぬように、内部からえぐって行く強さと逞しさを兼ね備えながらやらんと、収支が全くもって合わなくなってしまう。

住めば都にするのは自分次第。門は開かれている。あとはどういう作法で最新の注意を払いながら通るか。それだけである。

語尾でニュアンスが変わるのが辛い

今日は楽しかったよー(絵文字)久々にこんなに笑った!(絵文字)また是非飲みましょー!(絵文字)

誰もが送ったことがあるだろうし、誰もが受け取ったことがあるであろう、こんなメール、ライン、メッセージ。上っ面だけ仲良くされてる感が否めない。

もしも、例えば、である。

今日は楽しかったです。久しぶりにこんなに楽しい気分になりました。また是非お誘いいください。こころよりお待ちしております。

これだとどうだろう。どことなく距離を感じる。目上に立ってしまった感じがある。気を使われている。仲良くは無さそうだ。

平成も29年。絵文字、顔文字、スタンプの開発によって、僕らの文章読み取り機能は著しく変化した。それが退化なのか進化なのかはわからない。だが、文面のみで楽しさや嬉しさ、面白さを表現するのが実に難しくなった。

ボキャブラリーの問題だろうか。

本日は桃源郷かはたまた天竺かと錯覚をしてしまうほどに愉快極まりない時を共に過ごすことができて、私、すこぶる嬉しく思っております。再び本日のような宴会を開催できること、ろくろ首も首をすくめるほど首を長くして待ち焦がれております。是非ともお誘いくださいませ。

なんだ、少しだけ感情が見えて来たのではなかろうか。だが、どうしてもくどい。うるさい。生チョコにチョコレートチップトッピングをしてチョコレートソースをかけてるみたいな修飾と形容。既読無視筆頭の文面だ。

スタンプを使わず絵文字も使わない文章にて、どのような感情を表すか。行き着く先が、語尾となる。

〜だわな。とか、〜だよねぇ。とか。日常会話で使ってそうで使ってないけど違和感はそんなにない言葉を語尾に持ってくることにより、感情をうまいこと表出させる。ちっちゃい「ぁ」とか、「ぇ」を駆使して、柔らかさを見せる。

なんとなく語尾で遊ぶのが折衷点になりそうである。がしかし、この語尾遊び、後から見直すとめっちゃ気持ち悪い。ゾワゾワする。ゴビゴビする。

やはり、ボキャブラリーでぶん殴るしか無さそうである。不器用な僕らが生きる道。

現時点において精一杯のクオリティの曲を披露する

iMacが到着してからというもの、寝る間も割りかし惜しみつつ曲作りに励んでいた。あまりに地平が広がってしまったため、ゼロからの曲作りはしんどいなと考え、既存の曲をカバーする方針を取った。選んだのは往年の名曲、「ねえ人事」である。3年前、一生懸命に就活をくぐり抜けながら、世の中の同世代の苦しみ方を加味しつつ作り上げた曲だ。作曲背景に特別思い入れがあるわけではないのだが、人からいい曲だと言われる事が多いため、いい曲なのだなと噛み締めながら新作曲環境一曲目にチョイスした。

何しろこれが第一歩である。機能を把握しながら、ググりながら、立ち止まっては歩き立ち止まっては歩きを繰り返してやっとこさ完成させた。できないからって尻込んでちゃ進まないのだ。絶え間ないトライアンドエラーの果てに次の地平が広がっている。中途半端でも、聞き苦しくても、なんでもいいから曲を仕上げ続ける過程で、どんどんと精度が高まっていく。そう信じている。

当面の課題はどの音とどの音を重ねたらこんな風になるって方程式を自分の中に作る事と、エフェクターの把握、演奏技術の向上である。

音は重ねれば厚くなるけど、うまく重ねないとぐちゃぐちゃになる。逆にうまく重ねたらスッキリした音像になる。ゴテゴテさせず、必要な音を必要なだけ足して曲を作りたいものだ。そのためには音の作り方に強くなるのが不可欠であり、そもそものテクニックを向上させる事も言わずもがなである。

あと動画にすると音がもっさりしてしまうのもなんとかしたいものだ。

恥を承知で、披露する。今後の成長を約束する。

youtu.be

勤め続けるということについてざっくばらんに書いていく

雲のように消えていく考えをどうせなら今のうちに書く。

僕が勤める業界は恐ろしく水物の業界で、風が吹けば桶屋が儲かる然り、バタフライエフェクト然り、1+1が3にも100にもなれば0.01にも簡単になる世界である。不意の出来事が巡り巡ってとてつもない利益を産めば、大損害を被らせる。そんな中で、当たり前のように前年よりも売り上げを確保しなきゃいけないし、目標売上を達成していかなければならない。100パーセント自己ベストが出るコンディションでありながら土砂降りの雨だったりする。そういうことである。

商売という売上至上主義な世界でありながら、誰もが水物だと理解している弊業界の中でどうやって存在感を出していくか。

立派な人だと計算づくの上、平気で前年比を取り続けるらしいが、方法論として理詰めでぶち込める要素が少ないとなると、後は人を巻き込むしかなくなってくる。人をやる気にさせてこいつの為なら働きたいとか、こいつになら上に立ってもらいたいとかって思わせるしかなくなってくる。1人で100頑張っても100にしかならんけれど、100人で120頑張ったら12000になる。やはり、そういうことである。

どうしたら人が付いてくるのか。それはひとえに、確固たる価値観を持っていること。それに尽きる。

大衆迎合にもならず、レジスタンスにもならない、常に自分のスタンスを貫き通し続けること。さらにそのスタンスが誰の目にも明らかに合理的なスタンスであること。こんな芸当できるのだろうかと思う。実に難しい。

十人十色。十色の中でも似たような色があり、そこで共感しあったりする。かけ離れた色には苦い顔をする。空気を読みながら生きるのは簡単だ。しかし、自分の信念を貫き通すのは難しい。人に嫌われないように生きてきたやつは特にそうだ。当たり障りのない会話ほど楽なことはないが、世の中が求めるのはそれじゃないことが多い。お前の考えを聞きたい。お前の判断が知りたい。難しいですよね〜じゃ誤魔化せない、その先の確固たる判断をせねばならない。求められている。

「価値観を作っています」じゃ済まされないのだ。「頑張っています」でもないのだ。「どう考えてもこれはこうでしょ!」と語気を強めて言える何かを持つことしか、人はついてこないし人の上にも立てない。

たくさん判断して、たくさん考えをぶつけて、ボコボコになりながら成形していくよりないのかもしれない。アウフヘーベンである。アウフヘーベン

会社勤めのいいところはこういうところにもあると思う。その辺にゴロゴロ石が転がっているわけで、ぶつかりながらゴツゴツに成形してもらえる。いかにそういうチャンスを作るかは袖の振り方と生き方次第なのけれども。

なんとなく気合い入ったけど寝たら忘れるような夜に書いた話であった。ねむい。まじで。

編曲の難しさを感じすぎて痛い

iMac到着後2日で痛感した。

これまでひどく暗くジメジメとした倉庫のような作業環境でせっせと作曲していた。シンセもなければエフェクターもない状況下にて、精一杯の工夫を凝らしていた。

さて、iMacが到着してからというもの晴れて陽の光が当たる場所に出てきて、世界が広がったわけであるが、編曲がいよいよ難しい。

曲のアウトラインだけ作ってそのあとはぶん投げていた昨今の怠惰な作曲。精緻な作業なんてどうせできないんだから、しない。前がかりな諦めを抱いて作っていた。でもこの度、かなりハイレベルな編曲すらもどうにかなってしまうスーパーマシンがやってきてしまった。銀色の黒船である。するとどうせなら精緻な作業をしたい欲が首をもたげる。

いい機材がきたらいい曲は絶対に作れるという確信めいた何かは、驚くほどもろく崩れ去った。編曲のノウハウが僕にはほとんどなかった。ここでシンセを重ねたい。ここでパッドを入れたい。重ねるのは容易いが、重ねた先の音像が想像できないまま重ねるとしっちゃかめっちゃかな曲になる。おでんにマヨネーズをかけたような、ポトフにめんつゆをかけたような、とっちらかった曲になる。

音楽の聴き方を変えなければならないかもしれない。どんな言葉を使ってどんなメロディーでっていうのは、20数年間の人生である程度見識を深めた感はある。次のステージではどんな楽器をどう重ねて曲にしているかを聞き分けなければならない。A5ランクの牛肉も焦がせばただの炭である。僕が作ったようなヘッポコソングは、最高の調味料と最高の調理をしてやっと土俵に上がれるかどうかである。研鑽が求められる。気合い入れて曲聴こう。

こんな熱い思いを持って、仕事します。

何一つ削れない時間

今の今までiMacと取っ組み合いをしていた。やはり期待通り、ものすごく魅力的なパソコンであった。いつまででも遊べる。飽きがこない。使い切れないほどある機能。片っ端から調べることもせず、とりあえず曲作ろうと、行き当たりばったり苦しんだりしている。

そして眠い。でも明日の朝は走りたい。早起きしたい。シャキッとしてちょっとDTM弄ってから出勤したい。もちろん弁当も作る。新しい上司には日頃から両手両足をもがれてボコボコにされている。立ち向かうために義手や義足を用意しなければならない。そう、知識である。目には目を歯には歯を。知識でぶっ叩いてやりたい。と思うと、まじで時間が足りない。何せこうしてブログも書きたいわけだ。いくつものウサギを追いまくっている。今のところどのウサギも捕まえられる感じはしない。

当然のごとく優先順位はお仕事がダントツであり、むしろお仕事に支障きたす全てをやめるくらいの気迫があって然るべきなのかもしれないとかこのところ思うがしかし、iMacくんが真っ黒な画面で微笑んでくれちゃってるもんだから尻尾フリフリ仕事を忘れる。

日付変わる前には寝たい。ここにきて、ベジータ神龍に不老不死を願った気持ちがわかる気がする。強く、タフに、なりたかったんだろう。寝る間も惜しんで悟空を負かしたかったのだろう。なんて健気なんだ。

纏まらないが、とりあえず早く寝て、早く起きて、明日も元気に働きます。時間は作るものである。

iMac、始動

音もなく静かに動き出したそれは、これから先の僕の生活を一変させるに違いないことを確信させた。
台形の段ボール箱に入って届いたiMac。デスクトップといえど、画面の中に全てが入っているため、実にスタイリッシュである。内容物は、本体とマウスとキーボードとプラグ。あと申し訳程度の説明書とクロス。分厚い説明書などはない。石橋を叩いて叩いてぶっ壊して渡れなかった…ってなるような企業に勤めている日々から考えると、「電源つけてみなよ!いいから、電源つけて!」と、突っ込んでから考えろと諭されるようなAppleの指示には童心に戻されるかのような心持ちであった。
懸念されたインターネット接続も、事前に必死こいてプロバイダとの契約書を探し回ったことが功を奏し、スムーズにIDとパスワードを入力して解決した。
そう、かくして、iMacは完全に僕のものとなった。
こうなると早速DTM作成である。事前にインストールしておいたDAWソフトのlogic x pro。彼奴だけで25000円くらいするのだ。アホみたい。買ったからには使いこなすの意気込みで開いたはいいが、あまりにできることが広がりすぎて全く輪郭をつかめずにいる。今までめっちゃくちゃ映りの悪いなかで日テレだけをみてきた人間が、突然えらい綺麗な画質で全地上波+BSまで見られるようになったかのような衝撃。これまでやっていた作業の精度は増し、やれることも格段に増えた。何から始めたものやらわからないのだが、焦ることはない。少しずつ全貌を解き明かしていけばいい。少しずつ操れる範囲を広げていけばいい。だって全ては僕の手の中にあるのだ。今は未開かつ無限の地平が広がっているだけだが、iMacは逃げない。ブログにしろ音楽にしろ、発展への階段に足をかけたことは間違いない。
明日も、明後日も、来月も、僕はiMacと共にある。logicをいじれる。それがどういうことか。
すなわち、支払いは再来月だということである。
気合い入る。まじで。

家にいるときにたいていパソコンつけてyoutubeとか垂れ流している人は今すぐヘッドホンを買ったほうが良い

今すぐだ。

生活の質向上施策を推し進めている昨今の私ではあるが、パソコンを買い換えるにあたり、旧パソコンに眠っていたデータを外付けハードディスクに移す作業を行うこととなった。これまでハードディスクを持っていなかったため、買いに行ったのであるが、ついでにヘッドホンも買い換えようと思い至り、物色をした。これまで使ってきたモニターヘッドホンは、15年位前に父がエレアコを買った際に付属品でついてきた、おもちゃに5本くらい毛が生えた程度のヘッドホンであった。それはそれでそれらしく使っていたのだが、せっかくこれだけ環境大改造をするわけだし、ここに来て1万とかケチってどうすると自らに発破をかけて購入したのが以下である。


このオーディオテクニカのMシリーズには、20x、30x、40x、50xの4機種があり、数字が大きくなるほどに機能が上がり、お値段も上がる仕組みになっていた。ヨドバシのお兄ちゃんに言われるがまま勧められ、視聴を繰り返し、予算を抑えながらもそこそこなものを…と考えた結果、20xだとあまりにもちゃちい感じ(高音のシャリシャリ感)がしたので、30xにした。下から2番目の機種を購入するというありがちな結論。


以下は中途半端に公開した記事の追記である。


弊社の弊部門長が、今季の移動者に向けての訓示を授けてくださったとき、このような言葉を語った。

「泥水しかないところに行ったとして、しばらくは、こんなん飲めるか!って腹とか下しながら生きていくんやけど、三ヶ月経ったら慣れる。その三ヶ月が勝負や。より良い職場をつくり、より効率の良い仕事をするには、最初の三ヶ月の気づきを大事にせなあかん。」

おっしゃる通りでして、15年間もペロッペロの音に慣れ続けた僕は、ペロッペロの音こそがその音だと勘違いをしていた。

同じような例として、映画「ショーシャンクの空に」におけるブルックスが挙げられる。

ショーシャンクの空に」は底なしに有名な人気作で、ご覧になった方も多いだろう。映画を見ない僕でさえ3回観た。面白かった。

ショーシャンク刑務所におけるドラマを映した「ショーシャンクの空に」の中の登場人物の1人、ブルックスは、ショーシャンク刑務所に50年以上(記憶は曖昧だが確かそれくらい長い間)服役している囚人であった。仮釈放の審査にことごとく落ち続けるも、ショーシャンク刑務所の中ではしっかりとした地位を築き上げている老囚人。彼が劇中で不意に仮釈放を認められる。「俺はこの中に慣れすぎた…」(記憶は曖昧だが確かそんなセリフ)と呟きながら檻の外に出たブルックスは、懸命に娑婆に慣れようとするも、娑婆の空気に慣れず、苦しみ、果てに自ら命を絶つ。ブルックスにとってショーシャンク刑務所の中の泥水こそ清く、娑婆の清水が苦しかったのだ。

何が言いたかったか。慣れは怖いということだ。

僕が散々聴き続けたモニターヘッドホン。それが泥水とも清水とも知らぬまま聴き続け、改めてきちっとしたヘッドホンをつけた時の衝撃たるや。筆舌に尽くせない。ブルックスが命を絶つのもわかる。いや、言いすぎた。でも、本当に凄い。初めてメガネをかけた時のような、初めてコロンブスがアメリカ大陸を発見した時のような、圧倒的な世界の広がりを感じた。

日頃のyoutubeでさえ雲泥の差なのだ。楽曲制作になってみろ。考えただけで垂涎である。

13日にiMacが届く。新章の始まりである。

尊敬しないマン

ここ最近たて続いて、周囲の人間から「尊敬できる人がいない問題」を投げかけられた。生きていくにあたり、尊敬できる人がいるかいないかと言うのは非常に重要なファクターになるらしい。分からないでもない。尊敬できる人の存在は人生における先導であったり、仕事をすすめるに当たる一先ずのヘッドライトになっていく存在だ。

尊敬希求者の話を聴きながら、我が身を考えてみた。果たして自分は今まで誰を尊敬して生きてきたのだろうか。

進学や就職の折、何度か尋ねられた覚えがある。「尊敬する人は誰ですか。」

高校入試の頃、坂本龍馬と答えた。教科書に乗れる人になりたいと言った。教科書に乗っている人であれば誰でも良かったのだろう。宮沢賢治でも、安重根でも。大学に入るときの面接練習みたいなのでも不意に尊敬する人を訊かれ、とっさに父親と答えた。朝早く起きて仕事に行って云々。ありがちで面白みにかける返答だが、とっさに出てきたのであるから、父よ、自信を持ってください。就職活動に関しては色々訊かれすぎて果たして尊敬する人について聞かれたか覚えていない。聞かれていない気がする。

こうして何分か逡巡してたどり着いた結論が、僕はいまだかつて誰かのことを心より尊敬したことがないのではなかろうかということであった。

目標はあるし、目標となる人もいる。しかし、それは必ずや抜き去る前提の物体であって、尊敬の対象ではない。というかむしろ、尊敬の念が出てきた時点で勝てないんじゃないのくらいのことを考えている。尊び、敬う。字面からすると別に目上の人に対して尊敬の念を持たねばならないわけでもなさそうだ。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ、尊敬しているんだ。これでも全くおかしな話ではない。しかし世間ではとかく「尊敬」の念は自分より社会的地位とか年功とかにおいて、自分よりも上の人間に対して抱くもののように定義されている。また、尊敬する人を追い続けて研鑽に研鑽を重ね、追いついていくストーリーは素敵ではあるが、尊敬する人に追いつくまでにおそらく幾つもの目標をクリアしてきているはずであり、追いついた時点で尊敬する人はすでに目標となっている。

僕から見た坂東玉三郎のような、全くの異業種かつ勲章をもらってしまうような人が語る哲学に対しては尊敬の念を禁じ得ないが、僕が玉三郎を追うことはおそらくこの先ないだろう。彼の生き方、考え方を糧としながら自らを律していくことは大いにあれど。

「すごい!」でもなければ、「立派だ」でもない。強いていえば、「はぁぁぁぁ。」って声にならない叫びを上げるような心情が一番近いように感じる、「尊敬」。はるか先だとしても、すぐそこだとしても、同じレールに乗っている人に対してはどうも尊敬の前に悔しさが募る質を患っているらしい。極端な負けず嫌いだったわけじゃなかったと思うのだが。悔しい悔しい言いながら何もしない人間にはならんように、自らの見聞見識の醸造に精を出そうとは思うのだが、Amazonプライムとブログを行ったり来たりしているだけの情けない時を過ごしている。尊敬云々言える資格なんてなかった。

iMac早く届け。